【Modern Monetary Theory (MMT)】 に関して
この理論の最も特異な考え方は、自国通貨を持っている国は貨幣を刷っても刷っても国家はデフォルトしないというところにある。
この考え方の前提として【国家の永続性】というものあるが、まずこのあたりから間違っているのではないか。既に【近代国家は瓦解】しており、GAFAに代表されるコングロマリットによってコント―ロールされている状態と言っていい。今回のコロナ禍、どの国家も被害を被っている。つまり、この騒動を創った主体者は国家ではないということである。近代国家は翻弄され、互いに争わされ闘争状態に向かわされている。この世界の潮流の最前線を見抜かずに経済政策や経済理論を展開するのはもはやケインズと同じ古典派と言わざるを得ない。
【価値】に関して
刷っても刷ってもデフォルトに陥らない、円への信用も薄れない、というのも何か基本的なところが抜けた誤解ということが言える。上記の状態というのはわかりやすく言えば、スーパーマリオの無敵状態が延々と続く状態であり、その状態のスーパーマリオに価値を感じる人間がいるだろうか?ジャンプのタイミングを間違ってウリボーの目の前に着地したり、のこのこを蹴って自爆する瞬間に悔しさを感じるからこそ、無敵状態に意味があるのである。
だからと言って、私は日本人今まで通り頑張れ、と言っているわけではない。以前から書いているように”働かざるもの食うべからず”撤廃論者である。
この”働く”という部分の考えを変えなければならないのである。自分は日本でBlogサービスが始める前からWebで書き続けているのだが、それは決して働いているわけではない。自分の才能を活かしているのである。自営業者や起業家にとってはこれを働く、と捉える人は多いと思うが、会社勤めになるとこれは全く異なる捉え方となる。生活の為に働く、という考え方になるのだ。働かなくてもいい、活きていれば、粋でいればそれだけで良いのである。そこに金をとことん刷るシステム、それが必要である。
穏健派の中にはMMTと完全雇用をセットにして考えている方もいるようだが、自分の考えも当たらずも遠からずである。もしMMTの理論的側面を一部導入するなら自分の才能を活かしている状態のところにバンバン金を刷るというのならokである(その判定は困難を極めるが)。
前提は【近代国家は瓦解している】に関して
上記であるから、既に起こったものとして逆に【円】で国家(道州制)をつなぎとめる。各州は2次通貨を発行する。2次通貨は文化的差異の少ない世界のローカルと2次通貨統合をできるようにする。例えば、四国銀行とスイスのローカル銀行が2次通貨の中央銀行を合同で作る。仮想通貨のような不確実性はない。ただ、この場合、1次通貨との為替が非常に問題になる。現在は円が非常に弱いため、スイスに行けば物価が高いと感じる。四国がスイスローカルと通貨統合すれば通貨価値が同等になるわけだから、スイスに行きたい日本人が一旦、四国通貨『zeyo』に換金してスイスに行くようになる。この差が大きくなればなるほど四国銀行は手数料で儲かるわけだから、金融庁がこれを野放しにできない。そして他州も挙って魅力的な通貨圏と2次通貨統合をしようとする熾烈な通貨統合合戦となる。
これで第一地銀は息を吹き返すが、都銀は非常に危うい状況となる。現在ではこれは突飛な考え方に見えるが、道州制と地方創生とをセットに考えれば、全く陳腐ではなくなる。金融庁の権力自体も分散化され労働基準監督署の位置づけになるのではないか。
AMEROやTPP、あるいは英国のユーロ離脱の問題は、通貨統合の主体が非常に大きな権力を持つということに依る。TPP反対論者(私もそうであるが)は、アメリカが必ず裁判に勝つという状態が不公平であると考える。
2次通貨による通貨統合はそれらで≪苦々しい想いをした、している地域による逆襲≫になる可能性がある。裏の想いは【金融グローバリズムへの懐疑】である。2次通貨統合が金融グローバリズムに当たるのではないかと考える方もいるかもわからないが、それは【金融グローカリズム】である。FTAと同じようにどちらか一方のローカルが破壊されるようならば、その通貨統合を停止できる。【金融グローバリズム】は当然、停止できない。ローカルがどこまで破壊されても世界と競争して勝って儲かっていくことだけが善とされる。これはコロナウィルスによく似ている。低酸素状態で病状は悪化しているにも関わらず、普通と変わらない生活ができる。ガクッと来て病院に行くと肺炎が手の施しようの無いくらいに重症化している、という状態である。
グローバリズムは普遍的でもなければ幸福の使者でもない。富の収奪とローカルの破壊を成功神話で覆い隠す単なる世界的ウィルスである。
結論は、MMTは近代国家論と同時に語られるべき問題であって、貨幣論のみをスポットで語ることにあまり意味がない。つまり、”太平洋戦争の失敗の本質”⇒”東京資本主義の失敗と反省”⇒”近代国家の終わり”⇒”これからの日本の国家構造”の4つの流れを全て合理的に語ることができる人でなければMMTは何ら意味を為さないということである。
残念ながら、今の日本にはこれをできる人がいない。司馬遼太郎は生涯、日本とは何かを突き詰めた巨人であったし、加藤周一氏は失敗の本質を生涯突き詰めた日本人であったし、山本七平が見せてくれた側面は素晴らしいものであった。
日本の経済思想というものは、近江商人や土佐南学のように仏教と儒教のミクスチャから産まれてきたものである。当然、西洋の経済学もキリスト教からの派生である。であるから、信仰心がないものが経済を語るのは、どこか違和感を感じる。これは流石に中空構造ではだめだろうと思う。
金を刷って刷って刷りまくって動かなくても生きていける時代になった時に果たして日本人は幸せだろうか?明治時代の日本人が言った一等国とはそういうものだったのだろうか。中江兆民は、フランスの共和政下の自由から土佐独自の自由を語ろうとしたし、馬場辰猪は日本語の文法を英語で表し、英語第一言語導入説に徹底的に反対したし、新渡戸稲造はキリスト教精神に相当するものとして武士道を世界に紹介した。このように世界に比肩する精神文化・文明を英語で必死に紹介した過去の日本人と比べても、金を刷っても刷ってもデフォルトにならないから、というのはあまりにも安易すぎるというか稚拙すぎるという感が否めない。
経済理論、経済政策も後藤新平が如く【生物学の原則】に基づいて行われるべきであり、【日本人の幸福論】抜きの議論は、私からしてみれば単なる経済理論ヲタクにしか見えない。もう少し、日本の歴史と大局を見通したものにならなければならない。
ナインティナイン岡村の発言もパチンコ店の営業もケインズに言わせれば、欲望を持った物体であり、それらは指標に合致した予測通りの動きをしているということができる。批判する集団が日本経済の主体だとするならば、日本国は古典的な経済政策を脱し、ヌーベルな経済状態へと達しているはずである。しかし、現実はブラック企業が蔓延し、様々な階層の改革も遅々として進んでいない。ならば、私たちすべてが古典派とみなすのが自然ではないだろうか。政治家のみならず日本国民全員に聖人君子を求めるが、周りの皆がそのような状態になった時に一番困るのは完璧ではない自分自身なのではないか。自分はそんな社会はまっぴらごめんだし、不完全な自分であり続けたいし、不完全さが許容され称賛され続ける高知の文化がこれからも続いて欲しいと夙に願うばかりである。