ストックとフロー IoT第2通貨文化圏 0.39

地方創生の敵だった東洋経済が初めて質の良い記事を発出している。

「東京で働く」しか頭にない人が気づかない視点(東洋経済)

 

アクセンチュアという会社の社長さんの著作を紹介しているらしい。

30年後の生活コストの試算が秀逸

地方の食費が下がっていくというのはかなりの的を得ている。

高知の野菜は常に地産でデフレの状態にあるから移住者がどんどん増えて、仮にアベノミクスのような2%のインフレターゲットを達成できても野菜の価格は一定だろう。

つまり、野菜の生産者はいつまで経っても儲からないが、高知の野菜を取り巻くブームというのは見えない所で拡大していくのである。

 

肥料なし世話なしで放っておいてもどんどん育つ野菜がある中で余暇+食料、さらに市場投入という側面が出てくれば皆がサプライ側にまわる。高知ではそれが可能だ。第2の経済政策は、野菜を市場に投入した人に対する補助金である。ここに第2通貨“ぜよ”を大量投入する。

 

そのことによって、高知県は何を得るかと言えば新たなワークライフバランスを保持した若者を大量に獲得することが出来る。つまり、新たな文化素地を手に入れるのである。

 

売れる売れないに関わらず野菜を買い取る。重要なことはその野菜を運用するアグリカルプランナーが天才的であることである。金融商品は腐ることはないが野菜の実質的価値のサイクルには限りがある。高知県内の飲食店がダイナミックに対応出来る状態を保つというのも重要だろう。

 

つまり、味が落ちる直前に県内の千店舗に一気に供給し、一晩で消費してもらうという市場介入が出来るシステムが必要である。

 

ここにまさにIoTが必要だろう。千店舗の野菜のストックをいちいち聞いていては一晩で配布して消費するというのは不可能だろう。それぞれの店舗の野菜のストック状態を一目でわかる制御システムがあれば可能になる。もちろん多くの飲食店は目利きで野菜や魚を選んでいる店舗も多いから、希望店舗、希望野菜枠ということになる。

 

これを一般家庭にも拡げても良さそうだ。野菜配達買取を第2通貨にしておけば、高知県民も第2通貨を購入する。

 

腐るものを腐らせずにフローさせる。台風銀座から新たなマネーサプライ

マックス・ウェーバーと高知貨幣理論 0.38

マックス・ウェーバーによる講演“職業としての政治”

それはどのようなものであったか?

 

高知新聞の特別寄稿にあったように、10年後の私たちに期待するしかない状況に陥っている。

 

周りを見渡せば思想的戦略的、かつ情緒的巨大な日本人というのは全くの皆無、という状況である。本質的な活動が繋がっていくわけでもなく、SNSを通じて多くは我こそは、の思想で進む。

 

利他主義を標榜する利己主義。やはり時代精神なのだろうか。伝統的な日本人のような芯が欠ける。

 

MMTを簡単に言ってしまう学者

 

高知に多くの移住者が来て、元々高知で働いていた人間が働き口がなくなる。それは誤った見方であるように思う。高知の完全雇用は移住者が多ければ多いほど実現されるはずである。

 

日本一の森林率と日照率、食糧ローカリズムは、外からのインテリジェンスと内側のコミュニズムの完全なる調和によって完全雇用へと収斂される。ただそれには高知県独自の経済政策が必要である。

 

高知県の第二通貨”ぜよ“をバンバン刷ればいい。ランチパスポートが根付いているわけだから、あとはそれほど難しくはない。

 

750円→500円になった250円分の価値×使用回数がランチパスポートの貨幣的価値ということになる。それを100%県有化し、一旦固定相場制にする。20回分五千円紙幣にして4500円で売り出せば利回り10%だから資金はかなりまわる。リスクは現在の高知の飲食店が今のスキームとレベルを保ったまま10倍〜100倍規模まで拡大出来るかどうかだけである。それは高知の人間だけではどだい無理な話なのである。野菜もある、魚もある、アイデアも土地もある。足りないのは人材だけ。

 

円をバンバン刷っても意味がないのは、TVでやってるような豪邸自慢のような生活に誰も憧れていないという事実がある。

 

それよりも、海山川が綺麗なところで地元の食材で仲間と楽しい食事というのが皆の憧れになっているのである。円は既にそれを実現させてくれる手段ではなくなったのである。

 

サプライチェーンが瓦解し、自らがサプライの近くに住むことによってしか以前と同じレベルの生活が保てなくなるほど都市生活は危機的状況にある。コロナの影響、天変地異の影響、再生不可能エネルギーによる汚染など。それは皆が知っている事実。

 

デュアルコアシステム 0.37

これまでのカッコよさというのは、多く稼ぐというのがあったかもしれないが、これからは、短時間で稼ぐ、しかも社会起業で、という形になる。

いかに効率よく短時間で社会に貢献し、生活が出来ていく為の対価を得るか。

実はこれは、稼ぐ以外で使っている時間の使い方にも関係がある。

複業や人脈で繋がっている人たちとの関係

その関係性の中から生まれるコミュティビジネス

そこには課題があり、解決する方法もある。

しかし、全ての問題は人間関係である。

ほとんどの場合、日本人はお金以外の方法で思想的連帯をする術を忘れている。

 

“有り余る富”を、今時、欲する人間などいるのだろうか?

 

自分にとっては、そういう人間はすでに封建社会の人という位置づけだ。

 

私たちは既に富に左右されることのない時代に生きている。

 

つまり、いつ何時でも、会社員として雇用されても良いスキルとレベルを保っているということである。あえて会社員をしないでいる、ことと会社員が出来ない、という状態は異なる。

 

会社は小さな社会であり、自営業は大きな社会を相手にする。

 

ドロップアウトが凄いという時代も終わろうとしている。今後は、2地域居住はもちろんのこと、会社員と起業家の2ステート労働、そして資本主義と社会主義の2地帯思想のdual core が日本人の特別な才能になっていく。

 

会社に押し潰される状態から、会社を平社員の立場でコントロールする時代に

 

それは法律上、当たり前のことであるので、これまでが異常だった、というだけのことである。

 

オーストラリアやシンガポールのように自分の成長にプラスにならない組織ならどんどん切っていく、そういう労働者、自営業者主体の社会にしていかないといけない。

 

Everybody knows 0.36

地域の問題は解決されるべきか?

 

という問いに対して

 

決してそうとは限らない、というスタンスも持っておくべきだ。人間はそれほど、全知全能ではない。まさにOnly GOD knows

3.11で全く事業計画が丸潰れになって散々な状態になった自分としては、計画というのは、もはや天変地異の前では無意味だ、と言える。

 

だからこそGODだとは言いたくはないが、そこを意識的に取り込めるスペースを空けておくことは非常に重要である。

 

長いこと帰ってきてなくて、久しぶりに帰ってきて、初めて行ったかのような窪川や土佐清水の強烈なノスタルジーな雰囲気。なぜかアイルランドでも感じたもの

 

その衝動にずっと突き動かされている

 

狭い世界で宇宙を感じられる仕組み。仏教、源氏物語、宮沢賢治、世阿弥。日本人は得意ではなかったか。まだまだ俺たちは行ける。やるべきことはある。

小屋、ライフセイバー、トカ秘境 0.35

年間降雨量がインドネシアと同じくらいなので、かなり高知は熱帯気候ということになるだろうと思う。海と山が近くてやっぱり川もいい。

何よりもスーパーで売ってる刺身が普通に旨いので、自然と酒が進む。柑橘系とニンニクと刺身の文化で酒がないというのはあり得ない。

子供の頃から、川で魚、かに、はぜ、エビとって泳いで食べてた子供が大人になって飲まないわけがない。それぐらい、幼少期の体験は、今の高知県人のメンタルを作っている。高知じゃなくてもそういう環境で育った人は全国にいると思うので、高知に来ると面白くないわけがないと思う。

 

トカイナカじゃなくてトカ秘境でまだ空白地帯なのが、高知市布師田から南国市の岡豊地域と白木谷付近、そこから北山を横断して三谷集落。ここいらがすごく絶妙。これからは伝染病や天災などによるロックダウン的状況を想定して、自転車(ロードバイク)でのライフスタイルが本格的になってくるんじゃないかなと思う(理想)。

 

東へ一気に降って物部川で鮎釣り、西へ駆け抜けて仁淀川でSUP、北へヒルクライムで吉野川でラフティング、夜は高知市でライブしてベロンベロンに酔って、さくらハイヤーに自転車乗せて帰ってきて、朝から超絶景色いい庭先の畑耕して小屋ライフ

 

北山縦走路はそんなヒッピーで文化的な人たちを千人以上養える魅力と便利さを持っている。

 

しかもそこは、津波が見えるけど、絶対に到達しないほど高い。もしもの時は、野菜を持って自転車で駆けつけてくれるライフセイバーになるのかもしれない。

 

この人たちの収入源は当然、ベーシックインカム、ということになる。浜田知事の英断に期待したい。

スタンドアロンと移住神話 0.34

SNSやブログなどで、発信してる面白い情報主がいて、話ししたいなと思っていても、人気が出てきて、交友関係をその情報に載せ始めると、やっぱいいわ、という気持ちになっていることに気づく。こういう心理というのは、おそらく情報主がスタンドアロンの時は、おそらく自分の中の何かと共鳴してて何か自分の活動と一緒になればもっと広がるはずと思い込み、その向こう側の交友関係の人とは、あ、これ違うな、と判断してしまっているのではないか。

 

これを考えると、自分も気をつけないいけないと思うし、地方創生や地域活性化を考える時に非常に重要なファクターではないかと思い始めている。

 

高知は比較的どんな業種でも入り乱れて飲む文化があるんだけれども、活動が長くなるとどうしても、思い込みや偏見で判断してしまいがちになる。

 

コロナ禍で第四波目ぐらいの移住の波がやってくるんだろうと思うのだが、その中でも、当初から移住してきて、珍しがられて知名度を上げた人とか、山とか家をもらった人たちを羨んで、自分ももっと出来るはず、貰えるはずという少し面倒なことになるパターンもこれから十分に予想されるので、地域の人たちはある意味心構えをしておいた方が良いと思う(ほんとの意味での歪んだ資本主義精神が入ってくる)。

 

そんな中で、損得勘定なしで人付き合いしないと、とか、自分の利益の為だけに動いてても皆にバレてるよ、とか、ただ、なんとなく雑談して飲みの誘いに乗り続けるだけでうまくいく、というのは、今、ビジネスの世界でも言われてることと同じことが移住成功例として当然のように語られ始めるのではないか。

 

移住してきたら先入観なしでジャッジメントせずに、誰からの誘いも断らずに付き合うことが基本になってくる。しかも雑談して酒も飲まないといけないわけだから、ほぼ営業の仕事と同じ。

 

おそらく、第四波はほんとの意味での無欲の社会起業家的移住者が求められているのではないかと思う。それほど、今、移住者に求められるレベルというのが上がってきていて移住者という存在が普通になってきているのだと感じる。

 

良い人たちばかりならもっとこっちにも来てくれともなるはずだが、悪い人たちがいると、移住者なんて、と一括りにされてしまう危険性も孕んでいる。これは欧州の移民問題と同じ構造を持っている。

 

ただ、あまり、言われないが、日本人は民族意識が実は高いので、同じ民族を排除する傾向は同調する傾向によって逆に排除されていくと思う。ただし、ルールを破ったことによる村八分的傾向は今後も永遠に続いていくだろうと思われる。

高知市と山間部の構造論 0.33

今日、TSUTAYAへ行った時にたまたま見つけた“複住スタイル”という雑誌

 

香南市に移住した鈴木さんご夫婦の記事が気になって、買って家で読んでたら、ずっと前からブックマークしてたブログ主ということで少し驚いた。

この中で高知への移住の理由が、山行って温泉入ってゆっくり夕飯食べる、が1日で完結する、ということが書かれている。まさにその通りで、この部分を極限までブラッシュアップしていくことが新しい時代の行動哲学になるかと思う。

 

戦後資本主義の都市圏は闇雲に四方八方に拡大してきたが、これからの地方都市論は資本主義商圏とアウトドア圏を明確に分けるべきであると思う。この考え方のベースに資本主義と社会主義のミクスチャが存在する。

 

都市を自然と一体化させる、自然の中に都市を出現させるというのは、真新しいものではなく結構古くから存在する思想でもある。日本で言えば、手塚治虫のメトロポリスもそうだろうし、石原莞爾が戦後、首相になっていたら既になっていたかもしれない。《列島改造論・所得倍増計画》が、ほんとに正しかったのか。もう一度検証が必要だろう。

 

外国では、クラインガルデンの思想があって、日本ではちょっと違う思想で使われているが、そのクラインガルデンの思想も今後の都市計画の中に組み込んでいく必要があると思う。

 

要するに、高知はたまたま資本主義思想が根付かない土地だっただけに、周回遅れの都市化がやっと始まって、都市化が終わった東京からやってきた移住者が、『その都市化ちょっと待って、その先には何も良いことはないよ』というのが高知の現状

 

10年前と比べても、全体のスキームがレベルアップしていて最低限の都市機能と文化が享受出来る。ただ、これはたまたま、そうなったのであって、どこが最善なのかを話し合った結果ではない。

 

であるから、都市機能はそれぐらいにして、周辺部の中山間地域のスキームをver.UPしていかないといけないよ、という個人レベルでの活動が必要になってくる。

 

そういう意味で言うと、冒頭の鈴木さんが主宰するSO9ブランドは、強烈な思想を持っていると自分は感じている。集積材は、確か尾崎知事が在職中に地産外商の主力にしようとしていた材ではなかったか。

 

高知発のアウトドアブランド、木材ブランド、大きな可能性を秘めている。山を持ってる人はたくさんいるが、どうやって切り出すぜ、となって酒飲んで面倒くさくなって、そのままになってる人はたくさいる。

 

自分の親戚にも山師と大工と建築家がおって、皆が元気なうちになんとかせないかんでと言ってるうちに要の大工のおじが亡くなって、そんな話もなくなった。高齢化だけが問題ではなくて、闘病生活に入ったり、居なくなった穴を埋めるためにはだいぶんの時間がかかる。

 

そこへちゃんとした移住者の方が入ってくれたら自分たちもすごく助かると思う。だいたい、高知市に住む人は、じいちゃんばあちゃん親戚は西や東の山間部に住んでいるわけだから、自分たちの代わりに田舎を良く保ってくれる人ならたぶん協力すると思う。

 

MMTと日本人の幸福論 0.32

【Modern Monetary Theory (MMT)】 に関して

この理論の最も特異な考え方は、自国通貨を持っている国は貨幣を刷っても刷っても国家はデフォルトしないというところにある。

この考え方の前提として【国家の永続性】というものあるが、まずこのあたりから間違っているのではないか。既に【近代国家は瓦解】しており、GAFAに代表されるコングロマリットによってコント―ロールされている状態と言っていい。今回のコロナ禍、どの国家も被害を被っている。つまり、この騒動を創った主体者は国家ではないということである。近代国家は翻弄され、互いに争わされ闘争状態に向かわされている。この世界の潮流の最前線を見抜かずに経済政策や経済理論を展開するのはもはやケインズと同じ古典派と言わざるを得ない。

 

【価値】に関して

刷っても刷ってもデフォルトに陥らない、円への信用も薄れない、というのも何か基本的なところが抜けた誤解ということが言える。上記の状態というのはわかりやすく言えば、スーパーマリオの無敵状態が延々と続く状態であり、その状態のスーパーマリオに価値を感じる人間がいるだろうか?ジャンプのタイミングを間違ってウリボーの目の前に着地したり、のこのこを蹴って自爆する瞬間に悔しさを感じるからこそ、無敵状態に意味があるのである。

 

だからと言って、私は日本人今まで通り頑張れ、と言っているわけではない。以前から書いているように”働かざるもの食うべからず”撤廃論者である。

 

この”働く”という部分の考えを変えなければならないのである。自分は日本でBlogサービスが始める前からWebで書き続けているのだが、それは決して働いているわけではない。自分の才能を活かしているのである。自営業者や起業家にとってはこれを働く、と捉える人は多いと思うが、会社勤めになるとこれは全く異なる捉え方となる。生活の為に働く、という考え方になるのだ。働かなくてもいい、活きていれば、粋でいればそれだけで良いのである。そこに金をとことん刷るシステム、それが必要である。

 

穏健派の中にはMMTと完全雇用をセットにして考えている方もいるようだが、自分の考えも当たらずも遠からずである。もしMMTの理論的側面を一部導入するなら自分の才能を活かしている状態のところにバンバン金を刷るというのならokである(その判定は困難を極めるが)。

 

前提は【近代国家は瓦解している】に関して

上記であるから、既に起こったものとして逆に【円】で国家(道州制)をつなぎとめる。各州は2次通貨を発行する。2次通貨は文化的差異の少ない世界のローカルと2次通貨統合をできるようにする。例えば、四国銀行とスイスのローカル銀行が2次通貨の中央銀行を合同で作る。仮想通貨のような不確実性はない。ただ、この場合、1次通貨との為替が非常に問題になる。現在は円が非常に弱いため、スイスに行けば物価が高いと感じる。四国がスイスローカルと通貨統合すれば通貨価値が同等になるわけだから、スイスに行きたい日本人が一旦、四国通貨『zeyo』に換金してスイスに行くようになる。この差が大きくなればなるほど四国銀行は手数料で儲かるわけだから、金融庁がこれを野放しにできない。そして他州も挙って魅力的な通貨圏と2次通貨統合をしようとする熾烈な通貨統合合戦となる。

これで第一地銀は息を吹き返すが、都銀は非常に危うい状況となる。現在ではこれは突飛な考え方に見えるが、道州制と地方創生とをセットに考えれば、全く陳腐ではなくなる。金融庁の権力自体も分散化され労働基準監督署の位置づけになるのではないか。

 

AMEROやTPP、あるいは英国のユーロ離脱の問題は、通貨統合の主体が非常に大きな権力を持つということに依る。TPP反対論者(私もそうであるが)は、アメリカが必ず裁判に勝つという状態が不公平であると考える。

 

2次通貨による通貨統合はそれらで≪苦々しい想いをした、している地域による逆襲≫になる可能性がある。裏の想いは【金融グローバリズムへの懐疑】である。2次通貨統合が金融グローバリズムに当たるのではないかと考える方もいるかもわからないが、それは【金融グローカリズム】である。FTAと同じようにどちらか一方のローカルが破壊されるようならば、その通貨統合を停止できる。【金融グローバリズム】は当然、停止できない。ローカルがどこまで破壊されても世界と競争して勝って儲かっていくことだけが善とされる。これはコロナウィルスによく似ている。低酸素状態で病状は悪化しているにも関わらず、普通と変わらない生活ができる。ガクッと来て病院に行くと肺炎が手の施しようの無いくらいに重症化している、という状態である。

グローバリズムは普遍的でもなければ幸福の使者でもない。富の収奪とローカルの破壊を成功神話で覆い隠す単なる世界的ウィルスである。

 

結論は、MMTは近代国家論と同時に語られるべき問題であって、貨幣論のみをスポットで語ることにあまり意味がない。つまり、”太平洋戦争の失敗の本質”⇒”東京資本主義の失敗と反省”⇒”近代国家の終わり”⇒”これからの日本の国家構造”の4つの流れを全て合理的に語ることができる人でなければMMTは何ら意味を為さないということである。

 

残念ながら、今の日本にはこれをできる人がいない。司馬遼太郎は生涯、日本とは何かを突き詰めた巨人であったし、加藤周一氏は失敗の本質を生涯突き詰めた日本人であったし、山本七平が見せてくれた側面は素晴らしいものであった。

 

日本の経済思想というものは、近江商人や土佐南学のように仏教と儒教のミクスチャから産まれてきたものである。当然、西洋の経済学もキリスト教からの派生である。であるから、信仰心がないものが経済を語るのは、どこか違和感を感じる。これは流石に中空構造ではだめだろうと思う。

 

金を刷って刷って刷りまくって動かなくても生きていける時代になった時に果たして日本人は幸せだろうか?明治時代の日本人が言った一等国とはそういうものだったのだろうか。中江兆民は、フランスの共和政下の自由から土佐独自の自由を語ろうとしたし、馬場辰猪は日本語の文法を英語で表し、英語第一言語導入説に徹底的に反対したし、新渡戸稲造はキリスト教精神に相当するものとして武士道を世界に紹介した。このように世界に比肩する精神文化・文明を英語で必死に紹介した過去の日本人と比べても、金を刷っても刷ってもデフォルトにならないから、というのはあまりにも安易すぎるというか稚拙すぎるという感が否めない。

 

経済理論、経済政策も後藤新平が如く【生物学の原則】に基づいて行われるべきであり、【日本人の幸福論】抜きの議論は、私からしてみれば単なる経済理論ヲタクにしか見えない。もう少し、日本の歴史と大局を見通したものにならなければならない。

 

ナインティナイン岡村の発言もパチンコ店の営業もケインズに言わせれば、欲望を持った物体であり、それらは指標に合致した予測通りの動きをしているということができる。批判する集団が日本経済の主体だとするならば、日本国は古典的な経済政策を脱し、ヌーベルな経済状態へと達しているはずである。しかし、現実はブラック企業が蔓延し、様々な階層の改革も遅々として進んでいない。ならば、私たちすべてが古典派とみなすのが自然ではないだろうか。政治家のみならず日本国民全員に聖人君子を求めるが、周りの皆がそのような状態になった時に一番困るのは完璧ではない自分自身なのではないか。自分はそんな社会はまっぴらごめんだし、不完全な自分であり続けたいし、不完全さが許容され称賛され続ける高知の文化がこれからも続いて欲しいと夙に願うばかりである。

週休3日ベーシックインカム 0.31

アフターコロナ世の前兆として経団連から週休3日制の提言が為される模様

これはかなり驚くべきことであるが、細かく見ていくと、企業側の利益にも適った必然的な選択と言える。つまり、否応なしに私たちの働き方は望むべき方向に舵が切られたのである。

既に先進的な企業では週休3日制は導入されていたが、ここにきて全企業にまで波及する形で提言が為された。教育における”9月始業”という考えも、硬直化した日本社会がstaticからdynamicに移行した瞬間の出来事と言えよう。

 

そもそも日本企業は週休3日に移行できる能力を持っている。それを実現できなかったのは、”働かざるもの食うべからず”、”私たちの世代は週休1日だった”、”モーレツ社員こそ鏡”などの上の世代の感情的妄想のせいである。内部留保を減らしてでも社員の幸福を考えるのが、『日本的経営の根幹である』とは考えなかったのである。

 

そもそも企業に属することは、安心と安全の為であったにも関わらず、昨今の企業文化は社員を虐待するためだけのリスク装置になっていた感がある。

それが、『テレワーク基本、週休3日制、人権侵害の軽減、複業は社内ベンチャー』に移行すれば、起業家精神を持った人たちが企業に戻って来て日本企業が再生する可能性はある。

今後来る最大級の減益減収の中で日本企業の資本投下の先は当然、設備投資などではなくアフターコロナの世界における新しい日本人の働き方などの組織内の改革であろう。

 

SHARPがマスクを作り始めるというのは誰も予測できなかったし、したくはなかっただろう。ただ、それは決して悪いことではない。柔軟さこそがわれわれに残された唯一の希望である。

 

『テレワーク、週休3日、日本総正社員、複業推進、ベーシックインカム、無税減税』という松下幸之助も目指した日本人が目指せるべき地点がおかしくなったのは、金を持っているものが偉いという誤った情報を発信し始めた東京資本主義の影響が大きい。芸能界やマスメディアなどはその売り子として日本人の幸福をすり減らしてきたことにもっと目を向け自省すべきである。

 

ひとりひとりが企業内、企業外で奮闘し、”働かなくとも食うべきだ”に認識を変えていかなければならない。それが明治時代の【富国強兵・殖産興業】の洗脳から抜け出す第一歩である。もう日本国は強くなっているし、働きすぎることによってグローバリズム配下のどこかの国の暮らしや環境を奪って破壊していることに週休3日になった余分な1日を使って目を向けその世界の再生に尽力すべきである。

 

それは自分の住む地場のコミュニティの再生にもつながる。

アフターコロナ 予測不可能Pulse 0.30

皮肉なことにコロナ禍によって、日本人自身は、非国民報道や積極的に他国との戦争を推し進めたのが国民自身であるという歴史的事実を知るようになってきている。

日清・日露戦争でも戦争を望んだのは国民であるし、軍縮を提示した浜口雄幸を襲ったのも好戦的な日本人の同調圧力の結果である。

軍国主義者によって国民が戦争に巻き込まれたという教科書の認識は全くの間違いである。日本人は危機的状況に陥ると、人権や教養よりも暴力と権威に頼る傾向が強くなる。水戸黄門がまさにその代表である。そうではなくキリスト教世界における公会議のように論理と合理性によって世界を構築していかなければならない。それが日本においては自由民権運動であり、国会開設運動であった。

 

変容待ったなしの状況の中、重要な事実がある。世界のニュースを見れば明らかなように既に私たちは程度の差こそあれ、世界中で同じような生活様式、思考習慣によって生きているということが皮肉にも証明もされた。これはグローバリズムの少なからずの正の側面と言えよう。

 

ただ、ここでわれわれはグローバリズムに最後のとどめをさせなければならない。鎖国などではなく、ローカルを悉く潰す悪質なグローバリズムに、である。それは私たちの思考習慣にも紛れ込んでいる。東京がNYがParisがすごいんだという根拠のない共同幻想などである(都会なんて何もすごくないおらが村が一番、という逆のパターンもあるので注意したい)。”同じ日本人同士でも言語が通じないという現象は多分にこのような互いに乖離した意識と密接に関わっている”

 

コロナに対してもそうだが、アフターコロナの世界では、物事を正しく捉える、ということが重要になる。東京が上で地方が下という考えにしがみつけばつくほど、今後は問題が生じる。youtuberを見れば明らかなように、mass(大衆)という集団自体が既に瓦解したのである。当然、戦後のmassによって成立していた東京資本主義メディア、不動産(日本経済のファンダメンタルズ)、政治が根底から崩れ去ったのである。

 

コロナ禍によってもたらされた現実は、哲学的に予言された未来と同一である。つまり、現在平穏を保っている地域、業種、階層が未来においても安定を保つということである(南海トラフ地震という特別な事象がこれに含まれるかどうかは機会を改めたい)。

 

以前にも書いたように、現在コロナ禍で変化を余儀なくされている多くの事象は、問題が引き延ばしされていなかったとしたら既に解決済みのものばかりである。

 

その最たるものは、富と情報を集中させることの巨大なリスクである。この思考習慣を抜け出せないのは、日本のビジネスの世界で未だ、”選択と集中”という古い資本主義文化の思考習慣が残っているからである。

 

これを新しい時代の”未選択と分散”のスモールビジネス型に変えなくてはならない。とにかく傾向と垣根を超えて、見返りなしで雑談(資本投下)する。これによってもたらされる結果もマーケティングしない。なぜなら新しい大衆はそれを見抜いているからである。つまり、それほど現代はビジネスの手法が筒抜けな時代なのである。

 

それよりも全く予測できない地域や人物が脚光を浴びる。当然、笑いも興味も人間が予測できないところからの純粋なパルスである。