地域マネジメント 0.24

コロナ禍によって試されていること

 

”グローバリズム”という謎の尺度を選択して来た人類は、コロナによってまた保護貿易の状態よりも悪い状態、完全な鎖国状態へとチェンジしてしまった。

グローバリズムにその原因を求めるという論調は当然、今、日本にない。

 

だが、当然、地球の裏側までなにもかも一瞬でつながってしまう時代。だからこそ制限が必要だという事、ローカルは金を払ってでも守らなければならない、ということにならないか。

 

大切なのは、唯一無二の個性、普通ならありえない独特な価値観や風土、そしてそれが許される文化、人間の集団、のような吹いてしまえばふっと消えてしまいそうな膜である。

 

曜変天目のように漆黒の知性の中に渋く光る言葉や所作

 

地方に行けば行くほど、そのような独特な個性が根付く国にならないか

 

金を持っていることがステータスになった東京一極集中の戦後55年体制

 

コロナ禍を以って完全崩壊したと言っていい

 

集中すること自体がリスクなのだ

 

 

派手な言葉や行動そのものがクソださく感じてしまう

 

だからこそ、鈍く光る渋み

 

沈黙は金、とはこういう意味ではなかったか

 

雑誌に特集されるようなぺライ地方創生ではなく

 

民族主義のくそヤンキーが持ち出すローカルなultima ratio(最高の理性)

 

でもそれは閉鎖的ではなく、常に世界に開かれている

 

鬼道の女王卑弥呼が魏と通商を試みようとした倭人伝の頃の日本

 

レイヤーが全く異なる文明世界の融合

 

日本人はそれができるはず、というよりは日本人はそれしかできない

 

民主主義、法治国家、人権、国会、政党政治、近代国家で仕入れたもの
悉く失敗している。戦後はその成功モデルが何なのかさえ見失っている。

 

サプライチェーンや集中型の国家形態が、天変地異や感染症が頻繁に起こる時代に不向きなことが既に証明されたといって良い。昨今の急激な気候変動の兆しを考えると、この形態がこの先、非常に非効率なものになる、と考えるのは合理的である。(ただ、隣国が異常な集中型の共産主義国家だということは安全保障の側面から考える必要はある)

 

今後は都市国家型になっていかざるを得ない。都市国家とはいっても日本では村落型国家という形になるのではないだろうか。

 

そこに現在の大学と同じようなものができ、地域マネジメントが最大の学問になるのではないか。細別は機械や重機、林業、電気(特に再生可能エネルギー)、経営(スモールビジネス)、コミュニティ経済学、環境、教育など

 

重要なことは、総合職を排して専門職を増やして来たことの逆を行うことである。ただ、単なる逆ではなく広く深くの人材を育成することである。

 

つまり、朝は古代のベネチアのように山と街の環境の関係性を熟慮した木の伐採の設計図をCADで描き、山に出かけ自伐・間伐をし、重機で細分化し、家の木材に、あるいはアートの材料に出来るまでの工程を半日で済まし、午後はそれを芸術的にあるいは、その地域でしかできないアートに昇華させるための会議と、これからのマーケティング、これまでの販路の見直しなどのローカルビジネスへの関与、そして夜は大学での地域マネジメントの講座の指南役、そして最後はローカルフードのブランディングと世界戦略、地元固定種の防衛と深化に関する打ち合わせ、最後に地元ワインと地酒のテイスティングに終わるというようなサイクルを一握りに人間がやるのではなく、皆がそのレベルに行けるような村落集合体を形成することである。

 

- グローバリズムはローカルを破壊するが、グローカリズムは互いのローカルを強化する –

 

単純に言えば、馬路村を2段階も3段階も上げた村落国家型共同体の形成である。故に構造的に最も近いのは馬路村だが政策的に最も近いのは梼原町である。

 

前回書いたように高知の人間が組織化すると非常に無法な体質になるが、なぜ先進的な取り組みの完成型が突然変異として現れて来るのか、自分でもよくわからない。ただ、それを問うことは、植木枝盛ほどの天才がなぜ土佐に生まれてきたのか、ということを問うことと同じほど無意味なことかもしれない。