〖縄文態様〗と”失敗の本質”0.43

だいぶ間が空いてしまいましたが
縄文 察しと思いやり 0.40 で言及した【共存】について考えてみたい。

”共有”と”独立”というのは、なかなか同時併存ができにくい。

SNS時代なので、SNSを例にあげてみると、TwitterやFacebookにいわゆる”共有”をあげると、いかにも”共有”が立ち上がる。

しかし、そこには”友達”になっていたとしても<その情報を見たくない>あるいは<嫉妬する>人が存在する。

ただ、それが高知のように【コミュニティ】が残っている地域だと<その情報を見たくない>や<嫉妬する>人がほとんど存在しない。もっと言えば、存在する《意味がない》のである。

この《意味がない》というのは、それをすれば必ず自分が損をする、という人間の体験を元にしていると言える。これは決して《同調圧力》ではない。私はこの部分が四国遍路の土佐の部分にリンクしていると感じている。つまり、『発心(阿波)⇒修行(土佐)⇒菩提(伊予)⇒涅槃(讃岐)』の”修行”の部分のメンタルである。

和辻哲郎の『風土』には、人間の精神が風土に根ざしているのではないか、ということが書かれている。高知の人間のメンタルは、ざーっと雨が降って、一瞬にしてカラっと晴れるメンタルと似ている。西の山間部等は少し異なると思うが。

このようなメンタルの人間が多く集うコミュニティを想像してもらうとわかると思うが、<その情報を見たくない>や<嫉妬する>人は、存在意義を失うのである。

この状態を土佐弁で ”なんちゃじゃない” と言う。

この ”なんちゃじゃない” 状態が、安定すればするほど、【共存】という無双がきまりまくる。

さらに、この【共存】という無双がきまりまくる状態が続けば続くほど、【〖縄文態様〗】という確率変動局面が現出する、ようだ。

私たちの先祖が共存共栄の大東亜共栄圏で成し遂げたかったのは、この【〖縄文態様〗】を東アジアの全局面に導出することが哲学的目的だったと私は理解している。

後藤新平が、「生物学の原則に基づいて」植民地経営を行っていたのはあまりにも有名だ。彼は元医師であるから。

であるから、昨今のグローバリズム、SNSやメタバースなどのおかしな風潮は、よその国の目標であり、日本人としての本質的民族的目標と正反対のベクトルに向かっていると言える。

やりたいやつはやればいいが、何かおかしいと思う人は、自分の国の歴史を知り、物事を深く考えるべきであろうと思う。”失敗の本質”は昔の話ではない、今でも同じことがずっと続いている。

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