なぜ耕作放棄地再生に数名程度規模ではだめなのか

耕作放棄地再生の理由はいくつかある。

  1. 高知の事前復興
  2. 新しい生き方の提案
  3. 雇用改善(若者流出ストップ)

2と3は数名規模でも地道にやれば良いかと思う。

しかし、1は30年以内に圧倒的な野菜のロジスティクスを作っておかなくては、まるでやる意味がない。高知市内の死者10万人で、古浦戸湾内である高知市中心市街地の地盤沈下のリバウンドに1年ほどかかるという想定である。

南海地震が3連動化し、救援・復興の助けが全く来ないという想定でもある。地震後、四国山脈を越えて食料が入ってこないという想定なので、いわば、自給率100%の状態になっていなければならない。つまり、高知市内20万人と南国市・土佐市・香南市などの生き残った周辺人口10万人ほどの計30万人ほどの人口を1年間養えるほどの食料を備蓄できる”文化”を作っていかなくてはならない。

こう考えた場合、数名・数十名規模の例えば農業法人でも到底、追いつかない。現実化させるならば、最低でも数千人規模の移住者・開拓者が必要となる。

この規模の移住者を都市から呼び寄せるならば、給料を保障し、都市と同意程度の価値観・生活をこちらが保障しなければ、到底来てはくれない。これは、高知県という自治体がやっていることよりも壮大稀有な計画である。

このビジョンに基づいて、数千人を都市から呼ぶとなれば、そこに当然、村や町ができる。そこに政治力が生じるならば、この考え方を支持する村議会や町議会ができあがってくる。

高知県の大川村の人口が386人であることを考えれば、高知の山間部でのこの活動部隊が中山間地域の価値観をがらっと変えてしまうことは明らかである。逆にむしろ、そうならないと高知県は生き残れない。このままだと、地震後も自治を人任せにした結果、政府から補助金をぶらさげられ、まだ決定していない核燃料の最終処分場になることは目に見えている。

はっきりと言えることは、南海トラフ3連動地震後、住民自治力がない地域に使用済核燃料が持ち込まれる。これだけは間違いがない。残念だが、この部分については地域間の争いとなる。最も良い方法は、核燃料サイクルに替わるエネルギーサイクルの確立だが、周知<の通り、日本人には未だそのような政治力も創造力も革命力もない。

過疎地に無料乗り合いタクシーを!

15日の夜学会は、「地方首長の任期」をテーマに、50年にわたり芸西村長を続けた事例を紹介した。歴史上、王制でもそんな長い在位は珍しい。昭和天皇が64年というのも長い方で、平成の今上天皇もこの間即位したと思っていたらすでに28年に及んでいる。

民間企業では普通、3期6年が一般的。アメリカ大統領は2期8年と憲法で多選できないよう縛りがある。2002年に長野県知事だった田中康夫が3期12年という知事任期を縛る条例を議会に出したが否決された。そもそも2期8年やってできないものは3期目になってやれるはずがない。橋本大二郎、前高知県知事は3期目の公約で「改革」を掲げたが、自分のやってきたことを改革するのであれば自ら天に唾をするようなものであると嗤ったことがある。

わが高知県では知事と高知市長が3期目に入っている。これを阻止するには次の候補者を市民の立場から考えていかなければならない。選挙の直前に候補者選びをしていたのでは遅い。現職は必ず有利なのだ。

受講者の中から、「俺だったら8年も緊張感をもって続けられない。やめたいと思うのが普通だが、まだ走れるということは、全力で走っていなかったことになる」という意見が出て、みな納得した。

というような話の関連で、地方独自の政策テーマとして、山間地の交通弱者への対策について話し合った。

以前、大豊町でお年寄りを町の病院まで運んでいた人が、白タク行為で検挙される「事件」があった。現在では、一部の地域で社会福祉関連のNPOにそうした行為が許されているが、あまりに便数が少ない。

土佐山では4年前から、高知県交通のバスが庁舎前と市内を結ぶ便に限定する代わりに、タクシーをチャーターして、予約制で家から庁舎前まで運行することになった。タクシーを1日チャーターすると3-4万円かかる。バスより安いということだったが、庁舎前からのバス便が6日に数便しかないから、タクシーの運行もほとんど役立っていない。バスの乗客はほとんどゼロか一人なのだ。

仮にタクシーにそれほどのお金をかけるのだったら、乗り合いタクシーにして、常時、土佐山と市内をピストン運転したらどうだろうか。市内の入り口の愛宕商店街だったら、土佐山庁舎前まで20分。タクシーが2台あったら、1時間に2本の乗り合いタクシー運行が可能となる。それも高知市の補助金で無料運行できるかもしれない。

公共交通機関が高くて便数が少ない地域での移動はほぼ100%がマイカーに依存している。まして1000人足らずの村と高知市内を結ぶ交通機関にどれほどの乗客があるか分からないが、30分ごとの運行でしかも無料だったら、けっこうの利用者があるかもしれない。

高知市がやらないのだったら、NPOがボランティアで、運行できるかもしれない。運賃を取れば「白タク行為」になるが、無料だったらどうだろうか。経費はどうまかなうか? 会員制、チップなどの考えもでたが、広告費として徴収する案もでた。たとえば、住民から年間数千円の広告費をとって小さなステッカーを車に貼りまくったらどうか。

これは実現性が高いかもしれない。

いずれにせよ、僕たちが必要としている施策を自らが考え、それを実現してもらえそうな人物を探し出して選挙で応援する。これこそが民主主義の原点ではないだろうか。土佐人民共和国としては、エネルギーの自活、交通網の自活、食糧の自活を3本柱のテーマとしてもいいのではないかという意見も出た。

1カ月前に議論した菜種油からディーゼル油を取り、ディーゼル車タクシーを実現できれば、さらに面白そうだ。

誰がための仕事 ~ Inovation i am ~

とある人が役所と戦っている。しかもそれは自分たちがやってきた”外側から批判する”のではなく”内側から変革していく”という兵法である。

これにはかなりのエネルギーを要する。多くの場合、社風や風土に染まっていくのが世の常である。

”郷に入りては郷に従え”という言葉があるほどだ。

自分の目指す”変革”の多くがシュンペーターから来ている。つまり、経済学的な”変革”が自分の出発点だということである。

それをシュンペーターは、多くの意味を込めて”イノベーション”と呼んだが、そのイノベーションが今、進み始めているのではないか。

実は、われわれの問題とは『個人主義を超えること』にある。つまり、私たちの世代は、ひとつの価値観や宗教意識に基づいて団結ができないからこそ、社会資本を受け取れない・再分配がなされない世代となっている。いや、これは日本の若い世代だけではない。先進国の多くの国で見られる現象である。それが何を意味するのかと言えば、皆、アメリカの覇権主義の先の世界を誰も思想することができていないのである。

それが、なぜ、今、日本で、しかもこの辺境の高知で起こっているのか?

ともすれば、反発・対抗してしまいがちな若い世代もの同士。われわれはWebを通じて同じ価値観でつながりやすくなった一方で、異なる価値観を排除する傾向も強くなった。しかし、高知には≪異なる価値観がつながりやすい≫環境がある。これに多くのヒントが含まれている。

われわれは、われわれ自身でニューディールを行う必要がある。戦後日本人は、”精神の自由主義市場”に”アメリカ型の個人主義”を投入したが、それは世界で最もグロテスク化し、世にも奇妙な日本的な自分勝手主義が生まれた。われわれは、Inovationを実践しながら、同時にケインズ的な日本的”団結力”のニューディールをも獲得していけなければならない。この団結力がニューエコノミーとなり、戦後のおかしな強欲資本主義を排除していくことができる。

役所内で”変革”を目指すことも一興だろう。多くの報酬をもらわずとも理念とベクトル、そして”夢”で仕事を選択するというのもひとつの考え方である。

役所でデザイナーなんぞ。。

一発の案件で数十万の報酬が日常茶飯事のWebデザイナー

むしろ、企業報酬に飽きた異才デザイナー

なにがためのデザインか

どんな仕事でも≪ソーシャル・イノベーション≫は可能である。

政治によって社会が変わるのではない。イノベーションは経済活動の変革、もっと言えば、経済利益を生み出す大元の考え方の変革を意味する。

われわれは、お金のために生きているのではない。生きるためにお金を使っているのだ。であるから、何のために生きるのかを問えない仕事は、仕事ではない。

<a href=”http://www.town.tosa.kochi.jp/publics/download/?file=/files/content_type/type019/958/201607110927318715.pdf”>土佐町で異才デザイナーを募集している</a>。イノベーションが我が国の経済を再生させる道だと考えるデザイナーの方。高知からイノベーションを。

http://www.town.tosa.kochi.jp/publics/download/?file=/files/content_type/type019/958/201607110927318715.pdf

戦後成長神話の完全崩壊

2016年5月28日付け高知新聞夕刊に『高知県の空き家が6戸に1戸』という記事が掲載された。

政府の戦略ミスによる外国産木材の大量流入で山の管理が統制できなくなってから久しいが、既に空き家対策もこの段階に入りつつある。「空き家対策特別措置法」によって6倍の税、つまり更地と同じ固定資産税を払わせるという手法が正しいかどうかが問われる。

しかし、それは明らかに正しくはないだろう。なぜならば、あらゆるヒト・モノ・カネが右肩上がりに成長した”戦後の成長神話”を哲学的に乗り越えていないからである。

人口減少時代に、新しい家を作り続けていくのをやめずに、古い家を壊すことを推奨するというのは、経済思想的にも、現実的な経済面でも完全に狂っているとしか言いようがない。やるべきことは、作るエネルギーを維持管理するエネルギーに付け替えることであり、家1軒を新たに創造することよりも、家6軒を新たに創造的に管理する能力が求められている。つまり、これが古民家再生(リノベーション)の能力であり、その家を新たな拠点(ゲストハウス、カフェetc)にする(イノベーション)の能力なのである。

この考え方に到達するためには、成長神話という洗脳装置を脳から取り除かなければならない。会社に勤めて厚生年金を払いながら35年ローンで家を買うという構造自体が馬鹿らしいのだという考えに思い至らなければならない。材料もある、場所もある、労働力も持っているにも関わらず、自分のためではなく≪戦後成長神話というファラオ≫のためのピラミッド建設に自ら進んで使役している人たちは、社会貢献ではなく、権力増長への私的加担をしているということに気付かねばならない。その≪アンチテーゼを唱えられない脳の構造≫が、ブラック企業をのさばらせ、原発を延命させ、政治を混迷に落とし込めている根源的な原因であるということにも早く気付く必要があるだろう。だからこそ、現代日本人には今こそ、哲学的思考(アンチテーゼを唱えられる力)が必要なのである。

- 一体、誰のための幸福か? -

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1人よりも10人いれば、かなりのことが可能になる。にも関わらず、現代日本人の集団が、たちまち不公正で非効率に陥る原因とは何か?それは、効率が悪いわけでも公平さがないわけでもない。ましてや言いたいことを皆が言えないわけでもない。不公正に立ち向かうだけの哲学(正義、根拠)を持ち合わせていないだけである。この哲学を失わせたのは、良くも悪くも”科学”である。科学とは異なる解釈を許さない。解釈とは、千差万別の正義である。それが民主主義あるいは人権のファンダメンタルズになっているにも関わらず、日本人は自らそれを行使しようとはしない。行使できないからこそ他者を攻撃する。これが現代日本社会のプリンシパルである。この日本人メンタルのデフレーションは、経済のデフレ―ションよりも深刻だ。

-科学は哲学から生まれたが、哲学は科学から生まれたわけではない-

自らの幸福が35年ローンの足かせならば、われわれはエジプトのピラミッド使役の時代よりも不公正で非効率な時代に生きていることを自覚せねばならない。日本人は無宗教だと言うが、無宗教の状態でこのようなトチ狂った奴隷社会に集団で進むことはできない。まずは、われわれが強烈な催眠状態にかかっているということを自覚する必要があるのだ。

そこを脱して初めて、われわれはわれわれ自身によって新たなる成長神話を手に入れるのである。

ニューエコノミーが生まれる日

経済構造は一様ではない。

経済格差とは、すなわち情報格差である。他者よりも多く知ることではなく、他者よりも早く有益な情報を知ることによって経済格差は生まれていく。

江戸時代幕藩体制の下で有益な情報や文化を伝播していたのは、時に遊女や行商人であった。Webが発達し、われわれの目の前には一見、有益な情報がたくさん転がっているように見える、しかし、その情報の多くは顔の見えない人物から発せられた感情の伴わない、あるいは自らが資本主義的にのし上がっていくために発せられた半ば、嘘・偽りのベールのかかった情報である。バイアスと言ってもいい。

そのような情報にわれわれは一喜一憂し、真にリアルな情報は、一部の利益享受者によって真に囲われ、外に漏れないような仕組みになっている。一見、自由に思えるこの社会、何が真実かを問うならば、この情報の波を一旦、シャットアウトせねばならない。そして自らが出向き、話を聞き、その情報の真意を自分自身で確かめなければならない時代。

この視点に立脚すれば、われわれはきっとニューエコノミーを生み出すことができる。多くの場合、日本人の弱点は、情報を受け取れないことではなく、情報の正確さを判断できない、という部分にある。(それは、まず自分が何に属しているのかを知らないという根源的な問題がある。西洋のgodはbelongを伴うから西洋のキリスト教徒は、社会にbelongしているのではなくgodにbelongして、それが結果的に社会を形成している。それに引き換え、日本のgod(神道)はbelongを伴わない。それを強制的にbelongさせたのが国家神道であり、第二次世界大戦中の天皇であった)

つまり、われわれは文字によって思考伝達できない民族ではないか、という結論に達する。西洋発、文字によって存在や現象を表現・伝達するWebは、西洋のキリスト教文明、とりわけ4、5世紀のニカイア・コンスタンティノポリス・エフェソス・カルケドンのそれぞれの公会議の異端切り分けの思考回路をベースにしている。

われわれ日本人には、情報によって存在の善悪を判断する習慣もなければ歴史も全くない。我が国に法(Law)が入ってくる前に、法を司っていたのは、お上(Okami)である。安倍政権はまさに、自らがこの”お上”へと回帰する彗星の如くの運動性を持っている。

結果、今、われわれがしなければならないのは、Webによって得る情報を自分たちが正しく判断できると思い込まないことだ。われわれ日本人は、思考で物事を判断するのではなく、肌で判断する。

情報が氾濫した今だからこそ、実際に会って話をする、メールで話したことも再度、打ち合わせをする。そのような手間暇をかけて生まれてくるウェーブ、これが本当のニューエコノミーではないか。これは決して新しいことでもなんでもない。しかし、われわれはそこに再度、回帰することによって新しい波を実感することができる。

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Webと同じスピードで飛び、Webと同じ容量で処理し、Webと同じ先入観なしでつながる。

われわれ日本人には、デジタルをアナログ化することが求められている。それは決してアナログへの懐古主義でも、デジタルへの批判精神でもない。日本の歴史の中でこれまで何度も起こった国風化への流れである。

経済格差が生まれているという情報を中央から流しているのは、情報格差を生み出してきた中央のマスのメディアである。幕藩体制下の遊女や行商人が情報格差を埋める有益な情報を手にしていたことを考えれば、現代においてわれわれにそれができないようには思えない。単に思い込みと偏見が暴走し、逆に行動力が圧倒的に不足しているだけである。

格差を埋めるニューエコノミーは、すぐそこにある。

地域活性化はゼロサムゲームか

安倍政権による地方創生あるいは、CCRCは中央から地方へと社会資本を付け替えるだけのゼロサムゲームなのか?

池田勇人の所得倍増計画により、あるいは米国のグローバリズムという経済思想によってわれわれは、あたかも経済規模が大きくなれば、幸福が大きくなるだろうという幻想を信じ込まされてきた。しかし、その一方で、貧しいものはさらに貧しくなり、先行者利益を得ないものは、さらに後進的な不利益を被るという実態が、誰が見ても、現実のものとなっている。

経済学者たちは、”では、一体他にどういうやり方があるのだ?”と言わんばかりに、アベノミクスを間接的に支援し、多くの国は自国通貨安競争に転じた。その結果が、現在の株価のトリクルダウン的状況を生み出した。

アベノミクスというリフレーション政策は、実体経済を仮想経済によって刺激する荒療治である。その根底に存在する考え方に、経済規模の拡大がわれわれの生活を幸福にするという幻想が横たわっている。まず、われわれ自身がその幻想から目覚めなければならないだろう。

われわれが最も、注視しなければならないのは、経済の質の向上規模の拡大である。経済におけるQCサークルとは、経済の質を監視するものである。90年代ソニー創始者・盛田昭夫はアメリカ経済の投機型性質を揶揄したが、そのような日本型経済ポリスは今、日本に存在するのか?

多くはグローバリズムの幻想にひたり、地に足をつけた経済構造への転換に明確な思想を携え、ひた走るものは少ない。

江戸100万都市を支えた基本的通念はサステナブル社会である。当時の日本人が意図してそれを実現させたわけではない。日本古来の神道をつぶさに分析していけば自ずとサステナブルな社会が導き出される。それを自らが放棄し、民族同士が互いに搾取し合う状況に陥ってしまったこと。真に愚かとしか呼べない状況にある。

縄文1万年の豊かさを経ながら、将来の不安と少ない名誉と名声のために争わなければならなかった弥生の小戦争時代と今は、似ている。その後、弥生は国風化され現在に至るヒエラルキーが完成された。

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地域活性化がグローバリズムのようなゼロサムゲームであれば、われわれはそれに加担する必要はない。われわれは、互いの地域を支援し、互いの価値を高め、幸福をも高めていくために生きている。何がゼロサムゲームであり、何がゼロサムゲームではないのか、われわれははっきりとしっかりと認識しなければならない。奪った奪われたの経済構造の中にある限りは、経済規模の拡大は為替取引のゼロサムギャンブルと同じ意味合いでしかない。われわれ日本人の多くがこのゼロサムギャンブルの意識の膜に覆われていることを認識し、そこから脱するための活動を活性化していかなければならない。それが本当の地域活性化活動であるはずである。

経済構造の転換はほど遠い。しかし、その未来は決して暗くはない。なぜならわれわれは直感的民族であるからである。