7月15日は「地方首長の任期」

7月15日(金)のテーマは「地方首長の任期」
いつものように午後7時から、

はりまや橋商店街のイベント広場で開催します。

「余人をもって代えがたい」なんてこともありますが、万が一その首長が不慮の事故で執務不能になることもあります。そうしたら、誰かが代役を務めなければ ならない。そのためにも次世代の配役を育てていかなければならない。長期にわたって政権を担うということは、ある意味で次世代の成長を阻むことにもなる。
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「地方首長の任期」の意味するところは「政治のバトンタッチ」でもあります。官僚は長くても地位にあるのは2年程度です。民間企業の社長は創業者でないかぎり「二期四年」といわれています。それに対して、首長は一期がすでに4年です。
かつて、3期目の知事選でまだ「改革」を掲げた人がいました。2期8年でできなかったことが3期目になってできるはずがありません。

みなさんの参加を期待しています。

第49回はりまや橋夜学会『チャーター・スクール』

第49回はりまや橋夜学会『チャーター・スクール』ラジオ版 is out!

by とさらじ feat. Kawasaki

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2月17日のテーマは「北京の崇貞学園」

戦争が終わるまで、北京の朝陽門外に日本人牧師が経営する崇貞学園という学校があった。かつて、朝陽門は北京の東の果てで、揚子江からの運河が北上して北京に物資を運ぶ水運の拠点だった。人の往来が多きことから、多くの孤児たちが捨てられ暮らしていた。

その悲惨な状況に義を感じたのが、日本人の牧師だった。名を清水安三といった。彼はまず孤児たちを世話する孤児院を経営し、子どもたちに手に職をつけさせるため、縫製や手芸を教えた。やがて孤児以外の子どもたちもその職業訓練所に通うようになり、学校となった。

清水安三が孤児の世話を始めたことは1910年代の後半だった。日本が突きつけた対華21カ条要求が受け入れられて、全国的な反日暴動が起きていた。だが清水の行動は北京の知識人たちに受け入れられていた。おかげで北京大学の総長の胡適、共産党の創始者李大釗、作家の周作人、魯迅兄弟などトップレベルとのつきあいがあった。

戦争が終わって共産党が学校を接収し、清水安三は帰国を余儀なくされた。帰国後、清水安三はお茶の水で賀川豊彦に出会った。清水は日本でも学校経営を目指していたが、あてがあったわけではない。賀川に相談するとその場で、ある財界人が持っていた町田市の屋敷があてがわれ、後に賀川が買収して学校に寄付した。今の桜美林学園である。

今、崇貞学園は「陳経綸中学」と名を変えて経営されている。2005年に清水安三の偉業を顕彰するために校庭に胸像が建てられた。反日暴動が盛んな中だったが、胸像について反対はなかった。

円はため息ドルはじり貧

1995年6月27日、四国新聞一面下の「一日一言」が僕が書いたピリカのことを書いてくれた。農水省の役人と深夜飲んで、捨て鉢で造る国家、Hokkaidoを妄想したことを同省の広報誌に書いたことがある。もう21年も前の話であるが、まだ新鮮な話題である。以下にくだんのコラムを転載したい。

「円はため息、ドルはじり貧。世界経済は一衣帯水でポンドもフランもマルクも不景気な話題ばかり、欧州連合(EU)の新統一通貨エキュの受難も必然だ。ところでうわさの新通貨ピリカはご存知だろうか▲エキュは欧州の統一を目指すEUが採用を予定している新通貨の単位名。1997年実施の計画だったが、参加各国の財政状況にばらつきがあり過ぎて、EU蔵相理事会は先週、計画断念を発表した▲まるで船出前の座礁だが船もバランスが悪いと転覆する。大海原に出るのは安定してからという慎重意見だが待ちすぎてタイミングを失うとの懸念もある。そこへいくと通貨ピリカは元気がいい▲ピリカは「美しい」という意味のアイヌ語。実は「まぼろしの北海道独立計画」の中で語られた通貨名がピリカだ。友人の記者が、中央の若手官僚と飲んだ揚げ句の放談を雑誌に掲載したのだが。これがなかなか面白い▲道州制を提唱しても規制緩和もできない日本政府に期待できる訳がない―「いっそ国を作ろう」と話は決まった。「独立するなら北海道」。土地が広い。道路などインフラも良好、そのうえ四千メートル滑走路の空港がいい▲為替レートは1ドル=500ピリカで一人あたりGDP5000ドルなら国際競争力は抜群。お先真っ暗の乳製品、紙パルプ、炭鉱も生き返る。大統領制で札幌は経済の中心、首都は旭川、最高裁は帯広、議会は函館で三権分立。一極集中の愚は重ねない▲国語は日本語だが国旗にはアイヌの神さまふくろう。国家はもちろんトア・エ・モアの「虹と雪のバラード」。「補助通貨の単位はマリモだ」というあたりで酔いが回った。こんな話が冗談でなく国会議員の勉強会でも議論されているという。日本はそろそろ転換期だ。

2月12日はりまや橋夜学会「記者クラブ制度」

12日は「めろでぃー」での開催。10人が集まった。テーマは「記者クラブ制度」。普通も人もこの名前だけは聞いたことがあると思うが、実体はほとんど知られていない。新聞やテレビのニュースのほとんどはこの記者クラブから発信される。もちろん、事件や事故は現場からの中継もあるが、そのコンテンツは警察の記者クラブを通じて広報された内容をもとに記者自身が見聞きした部分を加味して報道される。記者クラブがなければ、ほとんんどの記者は現場に行っても何が何だか分からすに右往左往するはずなのだ。

記者クラブは首相官邸から各省庁、自治体、警察、企業団体に存在する。構成される任意団体だが、官庁や企業団体の一室を“占拠”している。運営は2カ月交代の幹事社が行う。突発なニュースは別として、日頃は48時間前に記者発表を希望する官庁や企業、個人が幹事社を通じて申し込み、発表予定は掲示板に掲載される。いったん掲示板に掲載されると、そのニュースは例え事前に知っていても書いてはならないというルールがある。これを48時間ルールと呼んでいる。

みなさんがテレビで見ている官房長官会見がある。これは首相官邸のブリーフィング・ルームで午前と午後と日に2回行われるが、建前はあくまで官邸記者クラブが官房長官に要請して行われることになっている。官邸詰めの事務官が司会しているが、政府が勝手に会見しているのではない。

僕の場合、経済記者として霞ヶ関や民間企業の記者クラブに多く所属したことがあるが、一番長かったのは経団連会館3Fにあった鉄鋼記者会だった。当時の経団連会館は昭和30年代に建てられたもので、電気事業連合会、石油連盟、鉄鋼連盟の企業団体が入っていて、鉄鋼記者会のほかに、エネルギー記者会、機械記者クラブ、財界記者会があった。いわば記者クラブのデパートのようなところだった。

鉄鋼記者会は鉄鋼連盟が借りている一室を間借りしたもので、基本的に新日鉄や住友金属など鉄鋼大手企業の広報のために出来たものだったが、後に非鉄金属や化学業界(ガラス、ゴム、紙パルプ、繊維、医薬品、化粧品など)の広報も行う場所となった。各社、鉄鋼担当と化学担当のそれぞれが詰めていて、毎日、そこに出勤する。出会うのは他社の記者ばかり。デスクとの対応はほとんどが電話。小さな部屋だから電話の内容は他社に筒抜けである。他社の記者がいないと、「あいつ何か違うことを取材しているのではないか」と不安にもなるが、そんなことは日常ではない。普段は和気藹々と企業の発表する資料をもとに取材し、記事を書く。先輩の他者の記者から「伴君、あの記事できた?」などと代筆を要請されることもないわけではない。昼飯も飲みに行くのも他社の記者である場合が多い。呉越同舟なのが記者クラブの一つの特徴である。

記者クラブ制度2

滋賀県警の記者クラブには2年間所属した。10社以上の新聞、テレビの記者が詰めている。入り口に泉谷さんという中年の女性が座っていて、至れり尽くせりのお世話をしてくれる。出前の注文はもちろん、ボタンの付け替えまでしてくれて、独身者にはまるでお母さん役だ。記者クラブには新聞と雑誌が完備されているので、事件事故がなければ、県警本部の暇な幹部は日に何度も顔を出して、将棋や碁の相手もしてくれた。

考えてみれば、なぜ記者クラブは役所の中を無料で占拠しているのか分からないが、広報官ともなれば、どちらかといえば記者よりの立場に立ってくれて、取材の便宜を図ってくれる。そして、記者を管理するというより、どちらかといえば無意識に「報道は公器だ」というような気分になっていたようだった。新聞記者は抜いた抜かれたの世界で、普段は仲良く振る舞っている仲間でも、突然、朝刊に知らない記事が載っていて、デスクに怒られることもある。そうなれば「あいつは誰から情報をもらったのだろうか」と疑心暗鬼になる。だから記者の仕事といえば、何かあった時に本当のことを教えてくれる「サツ官」を1人でも多く確保することなのだ。

新聞記者は因果な商売で、ニュースといえば事件や事故。世の中にとって悪いことばかり。事件や事故に恵まれないと新聞記者の感性は磨かれない。警察や消防も同じで、人様の不幸で飯を食っている。だからある意味同じ 穴のムジナということで似たような人格が形成されてしまう。というより悲しいことに同じ様な発想・思考をするようになってしまうのだ。記者クラブとはそんな人格を形成する場ともなっている。

高知と国憲 2015年2月6日夜学会

龍谷大学の先生をしている友人に高知で夜学会を開いていると話したら、僕もそんな学会を開きたいと言っていた。「違う、夜学の会だ」と言って大笑いになった。多くの人は勘違いしやすいが、あくまでも素人が学び合う会なのだ。

僕は外大を出て、新聞記者で経済を専門にしていたから、法律はど素人に近い。学生時代、法律ほど面白くないものはないと思っていたが、記者になるとまず最 初に刑事訴訟法を知らなければ仕事にならないことを知った。まず警察が容疑者を「逮捕」するとな何か、そして警察が検察に「送致」する。さらに検察が裁判 所に「起訴」する。そんな基礎的用語から学ばなければならない。身近なところから教えてくれれば、もう少し勉強したのにと残念に思う。

不思議なもので3カ月もすると警察官の話していることがすんなりと入ってくる。実務が大切だということだ。記者が軽率というか軽薄なのは、学者の世界からすれば生半可な知識で分かったような顔をして、記事を書くということだ。そんなことを30何年もやってきた。

この15年ぐらい、憲法とは何なのか考え、自ら勉強するようになった。もともとは改憲論者だったが、学んでいるうちに出会ったのが『法窓夜話』 という本だった。東大の初代の法学部長になった穂積陳重が書いていた。メソポタミアのハムラビ法典から始まって、ギリシヤの法律、中世の日本の武家諸法度 まで網羅してあってやさしく法律の意味を学ぶことが出来る。

この中に憲法という項目があって、明治初期に「憲法」という表現はなかったと言って いる。17条の憲法はあったじゃないかというかもしれないが、近世以降の概念としての憲法はなかった。福沢諭吉は英語で言うConstitutionのこ とを律令と書いていた。国法、国制、国体、朝網など人によって違う訳語をあてていた。一番多く使われていたのが「国憲」という訳語だった。だから植木枝盛 の憲法草案は「大日本国国憲按」と題した。条文の仮名では憲法という表現を使っているが、タイトルはあくまで「国憲」だった。

これは非常に重要なことで、僕たちがなにげなく使っている憲法という訳語は、明治初期には人口に膾炙されていなかった。

憲法が正式に決まったのは、伊藤博文がプロシア、オーストリアへ憲法を学びに行った時に「憲法取調」という役職をつけてからのことだった。大日本国憲法制 定の5年前のこと。そうなるとそれまではいろいろな訳語を使っていたのではないかと想像するが、そうでもなかった。大学の授業はすべて英語だったから、 Constitutionで通っていたはずなのだ。

穂積氏の本によれば、東大法学部で授業が日本語になったのは明治20年のこと。それまでは政治も経済も、自然科学も英語で教えていた。

当時の学校ではたぶん以下のようなやりとりがあったのではないかと想像している。
先生「France is now a republic. Not like our country, they dont have a king as a Sovereignty」
学生「先生、そのrepublicというのはなんですか」
先生「日本では歴史始まって以来、天皇がまつりごとの中心におられたが、フランスにはそのような存在はもはやない。つまりpeopleがsovereignというこっちゃ」
学生「ますますわからん。そのSovereigntyとかsovereignとか日本語で説明してください」
先 生「それが先生もわからんのじゃ。まつりごとをつかさどるという意味だが、日本にはそういう意味の単語がないのだ。天皇が京都に在位していて、将軍が江戸 でまつりごとをつかさどっていた。その将軍が大政奉還して明治の世となった。天皇が復権したいま、ヨーロッパに学んで天皇を中心にどのようなまつりごと の仕組みをつくろうかみなが考えている最中なのだ」

「政治」も「共和」「主権」もいまでは普通の日本語になっているから誰も気付かないが、当時はなんとも説明のしようがなかった。ヨーロッパの概念を一つひとつ日本語で説明する作業は並大抵でない。だから授業はほとんどが英語だった。

明治日本は数多くの訳語をつくった。共和とか自由とか、もちろん政治や経済もそうだ。2000近い和製漢語が生まれた時代だった。多くは中国の古典から探し出した表現に近世的な意味を与えた。
数日前、西岡さんのところで夜学会をやって江戸時代の高知のことを学んだが、古い地図に鏡川のことを潮江川と書いてある。そういえば四万十川となるのは 1990年代のことだ。それまでは渡川といっていたそうだ。NHKの放映によって、昔から四万十川と呼ばれていたようになっている。長宗我部家のことを書 いた『土佐物語』には四万十と書いてあるそうなので、川の名前にも変遷があるということなのだ。

安芸市の民俗資料館で発見したが、もともと安芸は「安喜」だった。長宗我部元親が安芸国虎を破った時に「安らけく喜ぶ」としたのが、明治時代になって元に戻した。地図を見るまで誰も知らないというのはよろしくない。

重箱の隅をつつくようなことに思われるかもしれないが、我々が常識と思っている多くの事象は実はあやとない事実の上に構築されているかもしれないということである。

さて憲法である。近世に初めて憲法が生まれたのはアメリカ合衆国だった。イギリスの植民地だった13州がイギリス国王に反旗を翻した。13州にはそれぞれ 総督がいて統治していたが、インド人を統治したのがインド総督だったのに対して、アメリカでは総督はイギリス人を統治していた。例えば薩長連合軍が徳川に 反旗を翻して西日本国を樹立するようなものだ。だから、アメリカの独立はインドの独立やベトナムの独立と決定的に意味が違う。

結果的に13州が 勝利するが、その背景に13州を応援したヨーロッパの国々があったからだ。アメリカ独立戦争時のフランスの統治者はルイ王朝だったから、応援したのはフラ ンス市民ではなく、王様だったことを覚えておいて欲しい。自由を求めた13州を支援したのだからおかしな話に聞こえるが、アメリカ独立戦争は実は英仏戦争 だったのである。

面白いことに13州の兵隊は民兵で正式な軍隊ではなかった。その民兵たちの頭領がジョージ・ワシントンだった。独立宣言は1776年。その後、合衆国憲法が生まれるのが1789年。13年にわたり13州の人々はこの国をどうするか議論を続けた。

イ ギリスとの戦いに勝利したワシントンは側近たちに「閣下、一刻も早く即位を」と王様になることを求めた。当然であろう。当時、地球上に民主主義などはな かった。だが、ワシントンは拒絶した。13州の人々は王様を戴かない国家をつくることにした。合衆国憲法はそんな13州の約束事を文章にまとめたものだっ た。Consitituteは構成するといった意味合いである。主権者はもちろん人民(peaple)であるが、最高権力者をPresidentと命名し た。プレジデントは聖職者や企業の代表にもつける呼称だったが、政治権力者に命名したのは13州の人々で、いわば大統領が彼らが発明者たちだった。
Constitutionやpresidentをどう日本語で表現するか悩んだのが100年後の明治の人たちなのである。

そして明治22年に大日本国憲法が誕生するのだが、僕が一番注目したのは99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法 を尊重し擁護する義務を負ふ」と書いてあることである。矛盾していると思わないか。憲法を尊重するなら国会議員が憲法改正を口にできなくなる。

僕が習った憲法は基本的人権、主権在民、戦争放棄の三つの柱で構成されていた。基本的人権や主権在民は合衆国憲法やフランス憲法には載っているが、明治憲 法にはない。明治憲法は欽定憲法といって天皇が決めたものだった。だから臣民はこれを守らなければならないという代物だった。
いま安倍首相が 「国民には権利と義務があるが、憲法には権利ばかりが書いてあって義務が書いていない」と改正憲法に国民の義務を多く盛り込む姿勢を示しているが、明治憲 法の第99条にあるように、公務員が暴走しないように箍を嵌めるのが憲法なのだ。安倍首相は憲法制定の主旨をまったく理解していないとしかいえない。法律 は国民に箍を嵌めるものだが、憲法はベクトルが逆なのだ。法律は上から目線であるのに対して、憲法の建前はしたから目線なのだ。冒頭に Constitutionの日本語訳について長々と説明した意味は全くここにある。

憲法改正に国民の意思が表明される国民投票が必要なわけもここにある。合衆国憲法の改正は国民投票でなく、州議会の議決が必要となっている点、日本と大いに違う。

だから、各国の憲法には必ず修正条項があり、日本の場合、国会議員の3分の2の議決を受けた上で国民投票で過半数を必要としている。フランス憲法で面白いのは絶対に修正できない条項がある。人民主権という条項で絶対に王政に戻せない仕組みになっている。

戦後の日本国憲法にはいくつか決定的矛盾がある。まず第一条に天皇は国の象徴であるとあるが、主権在民の憲法の第一条が天皇というところに大きな矛盾があ る。国家の構成を規定するのが憲法だとすると順番が違う。ついで、前文に「国民はこの憲法を確定する」とあるが、われわれは国民投票を経験したことがな い。ともに明治憲法の改正条項を基に日本国憲法がつくられたため、大きな矛盾を残すこととなっている。明治憲法73条は「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ 必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」とある。そして第2項に、3分の2以上の出席を得て、3分の2以上の多数を得なければ改正できな いと書かれてある。国民投票の条項がないから、新しくできた民主憲法といっても一度も国民の信託を得ていないのである。問題はここらが議論されたことが一 度もないことである。

改正の手続きに瑕疵はないが、どうもしっくりいかない。だから僕の憲法論は「廃止」なのだ。フランスなどは何回も新しくつくっている。

ところで、日本では総選挙後、特別国会を召集して、次期首班を指名することが憲法で定められている。国民が選んだ衆院議員の仲から首相を選出するのであ る。しかし、同じ議院内閣制を取るイギリスでは首班指名はない。総選挙後に形勢が判明した時点でバッキンガム宮殿から選挙に勝利した政党の党首に対して組 閣が命じられる。衆院議員の中から首相が選ばれるのではなく、あくまで組閣を命じるのは国王なのだ。憲法がない国だからなんとも言えないが、そういうしき たりとなっている。イギリスの場合、すべてが慣例に従うことになっている。戦前の日本でも組閣を命じるのは天皇の役割だった。

同じ民主主義国家 といえどもそれぞれにやり方が違うことを知っておく必要があろう。アメリカには国王はいないが、大統領選挙後、相手が「負けました」と敗北宣言をした時点 で、大統領就任が決まる。2000年の大統領選で民主党のゴアと共和党のブッシュが戦い、最後のフロリダ州の開票まで勝敗が決まらなかった。フロリダ州で は票数の数え直しまで行われたが、それでも年明けまで勝敗が分からず、結局、ゴアが敗北宣言をしてブッシュの勝利となった。日本のように選挙管理委員会の 最終票決を待つことはない。ここらが世界の民主主義のやり方の面白いところだ。

アメリカが合衆国憲法をつくってから、多くの国がアメリカに倣っ て憲法を制定した。ドイツはプロシアを中心とした連邦国をつくった。日本だって考えてみれば、江戸時代は徳川を中心とした連邦国家だった。ただ徳川が強す ぎたから、諸国は徳川に従わざるを得なかった。幕府が倒れて、薩長土肥が連邦を形成していれば違う形の国家が生まれていたかもしれないが、薩長は天皇を中 心とした国家をつくろうとして、そうなった。植木枝盛が国憲按で連邦制を唱えたのは、そのころまだその可能性が残されていたと考えられなくもない。

アメリカは13州で建国したが、建国した団体をコングレスといった。今も上院のことをコングレスという。今も昔もコングレスは州一人を選出する。2年ごと に選ぶから、50州で100人の上院議員がいるが、一票の格差は日本の比ではない。ここにアメリカの民主主義の原点があるのだ。もし日本も連邦制的な発想 を持てば、例えば参議院は各県一人することだって可能になる。連邦的は発想を持たないと、票は全部東京に持って行かれることになる。はたしてそれで日本と いう国家の均衡が保たれるのか疑問となる。このまま人口が稀薄になれば四国で一人とかになりかねない。それは冗談ではない。その時はもう遅いかもしれな い。

高知から見る東アジア 2015年1月23日夜学会の内容

一昨年、土佐山アカデミーに3カ月参加して、自由民権時代の高知に夜学会というものがあったことを知った。西川という集落に今も和田三郎邸が残っていて、山嶽社という夜学会が夜な夜な開かれていた。

「こ んな山の中で大人の学舎があったのだ」という感慨があった。その後調べてみると、高知県に反政府系の夜学会が150カ所、もちろん政府を支持する夜学会も あって、その数50。併せて200カ所もの夜学会があった。年間365日だからほぼ一日おきにどこかで夜学会が開かれていたのだから、そのエネルギーはす ざましかったと言わざるを得ない。

先週、金曜市で露店を開いていたところ、ケーナ吹きの村島さんが空き店舗で人を集めて音楽をやってい て楽しそうだなと思った。ひらめいたのはその空き店舗で夜学会を開いたらどうだろうかという思いだった。商店街の理事長の山本さんに相談したら、「どう ぞ」ということになって、今夜の開催となった。

まず僕が現在、危機感を持っているのは日中韓の仲違いである。売り言葉に買い言葉、特にネット上ではあまりに穢いのの知り合いが始まっている。僕は少年 時代を人種差別国だった南アフリカのプレトリアで過ごした経験から、世界平和のためには民族間の融和が不可欠であると考えてきた。

民族間の融和は口で言うのはたやすいが、人々の心の底にある差別感や憎悪を打ち消し去ることはなかなか難しい。司馬遼太郎さんは小説『菜の花の沖』で愛国心について語っている。

「愛郷心や愛国心は、村民であり国民である者のたれもがもっている自然の感情である。その感情は揮発油のように可燃性の高いもので、平素は眠っている。それに対してことさら火をつけようと扇動するひとびとは国を危うくする」

『菜 の花の沖』は江戸時代の淡路島を舞台に水夫から身を起こして、蝦夷地と上方とを結ぶ大回船問屋に発展させた高田屋嘉兵衛の一生を描いた小説だから、愛国心 というよりは愛村心のことで、村と村はいつもいがみ合っていて、争いを扇動するひとびとがいつもいたということを書いた上で、国と国の関係にも似たような 状況で戦争が起きてきたことに反省を求めているのだと思っている。

司馬さんはまた小説の中で嘉兵衛に「他国を謗(そし)らないのが上国だ」と語らせている。なかなか含蓄がある。中韓が日本を謗り、日本が中韓を謗る。いま東アジアでそんな構造が生まれている。

小泉純一郎が首相だった時、毎年、靖国神社を参拝し中韓から批判されていた。最初は馬耳東風とばかり、反応しなかった小泉首相がある時「外国政府が心の問題にまで介入して外交問題にしようとする姿勢が理解できない」と語った。

朝日新聞は翌朝の社説で「私たちこそ理解できぬ」と首相発言を問題視した。その朝日新聞の論調にさらに噛みついたのが産経新聞だった。産経抄は「読み返す ほどに身震いがくるような内容」と怒りをあらわにした。「『全国の新聞が・・・・・・』というのは誤植ではないかと何度も読み返した」「『私たち』とは誰 なのか・・・・・・」とほとんど煮えくり返る思いのたけをコラムにたたきつけた。

どっちもどっちだ。中韓におもねるほど非国民にはなりたくはないが、だからといってこんなことで愛国心に火をつけられてはかなわない。期待としては日本はアジアの「上国」でありたい。もちろん「上」は上下の上ではない。品性と言った意味合いである。

僕は学生時代から、アジア主義者だった。つまり反欧米主義である。欧米列強がアジアに来るまでアジアは平和だったとまでは言わないが、300年にわたり世 界を支配し収奪した罪は大きい。幕末の尊皇攘夷もまた、欧米列強による日本支配への警戒から始まったはずだった。アジア諸国が相次いで欧米の軍門に降る中 で、日本だけがかろうじて独立を維持した。日露戦争の勝利は欧米の桎梏から逃れようと戦っていたアジアの指導者たちを大いに鼓舞したに違いない。

だ がアジアで日本に続く勢力は生まれなかった。その後の一世紀、貧しいままのアジアが続き、日本はいつの間にか欧米勢と一緒になってアジアを侵略する側に 立っていた。欧米に立ち向かった日本に対して大いに誇るものがあるが、その後の日本の姿勢には共感できるものはなかった。

そのアジアがようやく経済的に立 ち上がってきたのが1980年代後半だった。アジアが世界の工場となり生産性を向上させ、人々の生活にまで及び始めた。僕は経済部記者として取材する価値 のあるテーマだと考え、アジア経済取材班を共同通信社で立ち上げた。アジアの経済的自立は僕にとって大いなる喜びだった。経済学者、大来佐武郎はそんなア ジアの経済を「雁行形経済」と命名した。日本が先頭に飛び、韓国、台湾、香港、シンガポールのNIESが後につながり、その後にASEAN,中国が飛ぶ。

まさにそんな時代があった。アジアが豊かになれば、争いがなくなっていく。国の指導者は軍事よりも経済に力を入れれば、そんな時代がやってくるものだと思っていた。

しかし、現実は甘くはなかった。豊かになった国ではそれぞれに愛国心が持ち上がってきた。特に中国と韓国では反日感情を煽ることで愛国心を高めることが”国策”となった。確かにそうかもしれない。経済発展もまた一つの国威発揚の手段となるのだ。

僕が夜学会を始めた理由のひとつは、なんとか日中韓の軋轢を融和するような発想をみなで発信していきたいと考えたからである。

自由民権運動は、もともとは藩閥政治に対する反発から始まり、政府に立憲政治を求める運動に発展した。その過程で「自由は土佐の山間より出ずる」という言葉 を生み出した。産声を上げたのは高知の地である。自由にものを語り、主義を主張するという藩政時代にはなかった風潮が突然、高知の地に生まれ、燎原の火の 如く全国に広まった。全国の自由民権を求める牛耳が高知にフォーカスされた時代だった。

どういうわけか多くの運動家、思想家を輩出することになっ た。僕はその根底に夜学会があったのだと考えている。はりまや橋夜学会はそんな高知の伝統を復活させるルネッサンス的試みである。「自由は土佐の山間より 出ずる」というスローガンをいま一度掲げる時が来たと思っている。そして東アジアに豊かさと寛容を両立させる運動も高知から発信させていきたい。どうぞご 支援をよろしくお願いします。(伴 武澄)

2月12日のテーマ「記者クラブ制度」

はりまや橋商店街の「めろでぃー」で午後7時から午後8時まで開催。

記者になって驚くことは多くの場合、本社だとか支社、支局が自分の働く場所ではなく、記者クラブに配属されることである。僕の場合、1977年4月に共同通信社に入社し、5月1日付けで大津支局に転勤となった。支局長と記者2人の世帯だった。すぐに県警担当となり、支局の真ん前にあった滋賀県警本部につれていかれた。県警本部には広報官がいて、事件事後の発生から経過をレクチャーしてくれる。分からないことがあったときは「他社の記者に聞け」といわれて、先輩記者は去り、1人置いてきぼりにされた。やがて昼飯時になって、交通部の伊谷という警視が現れて「お前が今度来た新人か」と問われ、「めくり」をしようと誘われた。電話帳をめくってそのページの3桁の数字を足して1桁目の数字が大きい方が勝ちとなる。意味も分からずに「めくり」をして僕は負けて、昼飯をおごらされるはめになった。話していると過去の共同通信の記者の名前が次々に出てきて、「あいつはよう頑張った」「あいつはけちでかなわなかった」などいわれた。ようは「お前も頑張れ」ということだったらしい。