アフターコロナ 予測不可能Pulse 0.30

皮肉なことにコロナ禍によって、日本人自身は、非国民報道や積極的に他国との戦争を推し進めたのが国民自身であるという歴史的事実を知るようになってきている。

日清・日露戦争でも戦争を望んだのは国民であるし、軍縮を提示した浜口雄幸を襲ったのも好戦的な日本人の同調圧力の結果である。

軍国主義者によって国民が戦争に巻き込まれたという教科書の認識は全くの間違いである。日本人は危機的状況に陥ると、人権や教養よりも暴力と権威に頼る傾向が強くなる。水戸黄門がまさにその代表である。そうではなくキリスト教世界における公会議のように論理と合理性によって世界を構築していかなければならない。それが日本においては自由民権運動であり、国会開設運動であった。

 

変容待ったなしの状況の中、重要な事実がある。世界のニュースを見れば明らかなように既に私たちは程度の差こそあれ、世界中で同じような生活様式、思考習慣によって生きているということが皮肉にも証明もされた。これはグローバリズムの少なからずの正の側面と言えよう。

 

ただ、ここでわれわれはグローバリズムに最後のとどめをさせなければならない。鎖国などではなく、ローカルを悉く潰す悪質なグローバリズムに、である。それは私たちの思考習慣にも紛れ込んでいる。東京がNYがParisがすごいんだという根拠のない共同幻想などである(都会なんて何もすごくないおらが村が一番、という逆のパターンもあるので注意したい)。”同じ日本人同士でも言語が通じないという現象は多分にこのような互いに乖離した意識と密接に関わっている”

 

コロナに対してもそうだが、アフターコロナの世界では、物事を正しく捉える、ということが重要になる。東京が上で地方が下という考えにしがみつけばつくほど、今後は問題が生じる。youtuberを見れば明らかなように、mass(大衆)という集団自体が既に瓦解したのである。当然、戦後のmassによって成立していた東京資本主義メディア、不動産(日本経済のファンダメンタルズ)、政治が根底から崩れ去ったのである。

 

コロナ禍によってもたらされた現実は、哲学的に予言された未来と同一である。つまり、現在平穏を保っている地域、業種、階層が未来においても安定を保つということである(南海トラフ地震という特別な事象がこれに含まれるかどうかは機会を改めたい)。

 

以前にも書いたように、現在コロナ禍で変化を余儀なくされている多くの事象は、問題が引き延ばしされていなかったとしたら既に解決済みのものばかりである。

 

その最たるものは、富と情報を集中させることの巨大なリスクである。この思考習慣を抜け出せないのは、日本のビジネスの世界で未だ、”選択と集中”という古い資本主義文化の思考習慣が残っているからである。

 

これを新しい時代の”未選択と分散”のスモールビジネス型に変えなくてはならない。とにかく傾向と垣根を超えて、見返りなしで雑談(資本投下)する。これによってもたらされる結果もマーケティングしない。なぜなら新しい大衆はそれを見抜いているからである。つまり、それほど現代はビジネスの手法が筒抜けな時代なのである。

 

それよりも全く予測できない地域や人物が脚光を浴びる。当然、笑いも興味も人間が予測できないところからの純粋なパルスである。

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