ニューエコノミーが生まれる日

経済構造は一様ではない。

経済格差とは、すなわち情報格差である。他者よりも多く知ることではなく、他者よりも早く有益な情報を知ることによって経済格差は生まれていく。

江戸時代幕藩体制の下で有益な情報や文化を伝播していたのは、時に遊女や行商人であった。Webが発達し、われわれの目の前には一見、有益な情報がたくさん転がっているように見える、しかし、その情報の多くは顔の見えない人物から発せられた感情の伴わない、あるいは自らが資本主義的にのし上がっていくために発せられた半ば、嘘・偽りのベールのかかった情報である。バイアスと言ってもいい。

そのような情報にわれわれは一喜一憂し、真にリアルな情報は、一部の利益享受者によって真に囲われ、外に漏れないような仕組みになっている。一見、自由に思えるこの社会、何が真実かを問うならば、この情報の波を一旦、シャットアウトせねばならない。そして自らが出向き、話を聞き、その情報の真意を自分自身で確かめなければならない時代。

この視点に立脚すれば、われわれはきっとニューエコノミーを生み出すことができる。多くの場合、日本人の弱点は、情報を受け取れないことではなく、情報の正確さを判断できない、という部分にある。(それは、まず自分が何に属しているのかを知らないという根源的な問題がある。西洋のgodはbelongを伴うから西洋のキリスト教徒は、社会にbelongしているのではなくgodにbelongして、それが結果的に社会を形成している。それに引き換え、日本のgod(神道)はbelongを伴わない。それを強制的にbelongさせたのが国家神道であり、第二次世界大戦中の天皇であった)

つまり、われわれは文字によって思考伝達できない民族ではないか、という結論に達する。西洋発、文字によって存在や現象を表現・伝達するWebは、西洋のキリスト教文明、とりわけ4、5世紀のニカイア・コンスタンティノポリス・エフェソス・カルケドンのそれぞれの公会議の異端切り分けの思考回路をベースにしている。

われわれ日本人には、情報によって存在の善悪を判断する習慣もなければ歴史も全くない。我が国に法(Law)が入ってくる前に、法を司っていたのは、お上(Okami)である。安倍政権はまさに、自らがこの”お上”へと回帰する彗星の如くの運動性を持っている。

結果、今、われわれがしなければならないのは、Webによって得る情報を自分たちが正しく判断できると思い込まないことだ。われわれ日本人は、思考で物事を判断するのではなく、肌で判断する。

情報が氾濫した今だからこそ、実際に会って話をする、メールで話したことも再度、打ち合わせをする。そのような手間暇をかけて生まれてくるウェーブ、これが本当のニューエコノミーではないか。これは決して新しいことでもなんでもない。しかし、われわれはそこに再度、回帰することによって新しい波を実感することができる。

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Webと同じスピードで飛び、Webと同じ容量で処理し、Webと同じ先入観なしでつながる。

われわれ日本人には、デジタルをアナログ化することが求められている。それは決してアナログへの懐古主義でも、デジタルへの批判精神でもない。日本の歴史の中でこれまで何度も起こった国風化への流れである。

経済格差が生まれているという情報を中央から流しているのは、情報格差を生み出してきた中央のマスのメディアである。幕藩体制下の遊女や行商人が情報格差を埋める有益な情報を手にしていたことを考えれば、現代においてわれわれにそれができないようには思えない。単に思い込みと偏見が暴走し、逆に行動力が圧倒的に不足しているだけである。

格差を埋めるニューエコノミーは、すぐそこにある。

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