地域活性化はゼロサムゲームか

安倍政権による地方創生あるいは、CCRCは中央から地方へと社会資本を付け替えるだけのゼロサムゲームなのか?

池田勇人の所得倍増計画により、あるいは米国のグローバリズムという経済思想によってわれわれは、あたかも経済規模が大きくなれば、幸福が大きくなるだろうという幻想を信じ込まされてきた。しかし、その一方で、貧しいものはさらに貧しくなり、先行者利益を得ないものは、さらに後進的な不利益を被るという実態が、誰が見ても、現実のものとなっている。

経済学者たちは、”では、一体他にどういうやり方があるのだ?”と言わんばかりに、アベノミクスを間接的に支援し、多くの国は自国通貨安競争に転じた。その結果が、現在の株価のトリクルダウン的状況を生み出した。

アベノミクスというリフレーション政策は、実体経済を仮想経済によって刺激する荒療治である。その根底に存在する考え方に、経済規模の拡大がわれわれの生活を幸福にするという幻想が横たわっている。まず、われわれ自身がその幻想から目覚めなければならないだろう。

われわれが最も、注視しなければならないのは、経済の質の向上規模の拡大である。経済におけるQCサークルとは、経済の質を監視するものである。90年代ソニー創始者・盛田昭夫はアメリカ経済の投機型性質を揶揄したが、そのような日本型経済ポリスは今、日本に存在するのか?

多くはグローバリズムの幻想にひたり、地に足をつけた経済構造への転換に明確な思想を携え、ひた走るものは少ない。

江戸100万都市を支えた基本的通念はサステナブル社会である。当時の日本人が意図してそれを実現させたわけではない。日本古来の神道をつぶさに分析していけば自ずとサステナブルな社会が導き出される。それを自らが放棄し、民族同士が互いに搾取し合う状況に陥ってしまったこと。真に愚かとしか呼べない状況にある。

縄文1万年の豊かさを経ながら、将来の不安と少ない名誉と名声のために争わなければならなかった弥生の小戦争時代と今は、似ている。その後、弥生は国風化され現在に至るヒエラルキーが完成された。

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地域活性化がグローバリズムのようなゼロサムゲームであれば、われわれはそれに加担する必要はない。われわれは、互いの地域を支援し、互いの価値を高め、幸福をも高めていくために生きている。何がゼロサムゲームであり、何がゼロサムゲームではないのか、われわれははっきりとしっかりと認識しなければならない。奪った奪われたの経済構造の中にある限りは、経済規模の拡大は為替取引のゼロサムギャンブルと同じ意味合いでしかない。われわれ日本人の多くがこのゼロサムギャンブルの意識の膜に覆われていることを認識し、そこから脱するための活動を活性化していかなければならない。それが本当の地域活性化活動であるはずである。

経済構造の転換はほど遠い。しかし、その未来は決して暗くはない。なぜならわれわれは直感的民族であるからである。

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