土左大神は隕石神か 0.13

まず前提として、日本古代の文化文明が夜を中心にされていたことをまず知る必要がある。1日の始まりが宵宮とされ、日が没する時が始まりという考え方である。まず、この感覚を理解しないことには古代史を理解することが難しい。

 

さて、1日の始まりが何故、夜からかということだが、宮崎駿監督のもののけ姫を見ても分かり易い。シシガミ様が活動できるのは太陽が没して太陽が昇るまでの間である。つまり、霊(ヒ)の力が使えるのは夜だけであり、このヒに日の文字を当ててしまったのは、大和朝廷の鬼道の封印ということになる。

 

つまり、記紀では悪神とされている香々背男神(星神)、ほぼ言及されていない月読命が日本古来の信仰体系の中心にいたことをまず認識する必要がある。

 

ちなみに星神社が多いのは、高知県、栃木県、群馬県。香々背男神が眠っているのは茨城県である。さらに言うと、高知県の神社では、今でも北斗七星を祭神にしている神社がある。天武期、明治期、戦後期の3回の破壊を免れた奇跡の古社たちである。北極星を祀った神社が悉く大王は1人という律令国家の設計思想内で修正を余儀なくされたことも、特に天竜川周辺の北極星文化に対して敬意を表しつつ、書いていきたいと思う(当然のことだが、北極星とは諏訪湖のことである)。

 

さて、今回は土佐風土記逸文にある天河命に纏わる考察である。

当然、上記の前提を読んでいただければ、天河命が天の河を神格化したものであることはだいたいはお察し頂けるものと思われる。これが、他の文献には全く出て来ない土佐独自の神であること、そしてその神が675年に天武天皇に神刀一口を献上した土左大神の子であること。

そして、その天河命の娘が浄川媛命であること。この神が当然、瀬織津姫の原型、祓戸の女神であることは言うに及ばない。

 

端的に言うならば、夜=星(北極星、北斗七星)=天の河→昼=島、巨石=川→大王=巫女=力の象徴=霊(ヒ)ということである。

 

さらに言うと土佐郡家内を流れる国分川には川を挟んで七夕の風習があり、葛木男神社と葛木比咩神社がある。ここまでは全国にもあると思うが、ここが布師の拠点というところが重要な意味を持つ。長宗我部元親の居城はこの範囲内にあり、岡豊(おこう)とはおそらく”お皇”、高知県には笑い話か、というような高板山という山があり(つまり、お皇が居た山)があり、巨石遺構も残されている。

 

本能寺の変時に藤氏長者であった一条内基も25歳から28歳まで土佐に逗留しその8年後に関白・藤氏長者になった(翌年本能寺の変)、垂加神道を大成した山崎闇斎も若い頃この付近で修行し、菅原道真が亡くなった時に道真の遺品を長男高視に届けに来た伊勢の度会氏(白太夫)もこのあたりで没しているし、ひらがな革命を起こした紀貫之も大津御所あたりから京へと出立している。

 

話を元に戻して、布師とは誰かということは良く知られていない。ただ、魏志倭人伝項に色鮮やかな布を魏に贈ったということは、倭人伝項の信憑性は抜きにしても有り得る話である。

 

星と秦氏、タクハタチジヒメを関東関西などで調べたが、釈然としない。絹をうず高く積まれたので、太秦になったという記述はどうも信じがたい。秦氏はどう見ても土木工事で時の政権に寄与している。

 

高知での配置を見ると、葛城氏が最も政権に近い、賀茂氏、秦氏がその後に続く。

 

葛城氏が天の河を信仰し、ベガ、アルタイル、デネブをも信仰していたのか。高知市の桂浜は古来、勝浦浜だったとも。和歌山、千葉にも存在する勝浦。海神族の船での航行は星を目安に行われていた。また、あめのまひとつ神にも象徴されるような鉱石族も夜、行動する事が常とされた。何故ならば、鉱石が夜光るから鉱脈を探し易いのである。

ここで気になるのが、夜、山に入れば狼がいる。狼信仰は北関東そして高知に比較的多い。冒頭の星神社の多い地域と謎の一致を醸す。坂東眞砂子の狗神憑きではないけれども、狗神という民間信仰は今でも高知の中山間地域には存在する。

 

古代の内神について – 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ

 

上記のリンクに平川南さんの内神考察がある。結びで書かれているのは、土佐郡家などで祀られていた戌亥隅神の祭祀が中央の祭祀に取り入れられ拡大していった可能性があると書かれている。

 

土佐高加茂大社の奥社はおそらく北斗七星を祀った七ツ淵神社であり、龍神が鉄器を嫌ったという伝承がある。土佐神社の辰巳方角に葛木男神社、葛木ヒメ神社、さらにその先の辰巳方角は石器時代からの遺構が連綿する高天ヶ原山。さらにその先には卑弥呼と同時期に存在した纏向とは比べ物にならないくらいの巨大弥生集落の田村遺跡と介良三山。

藤原京内においても戌亥の方角の祭祀を意識した構造があるということであるから、藤原京自体が土佐の御所と介良三山の構造を模した可能性すらある。

 

葛木ヒメ神社から葛木男神社に国分川を渡る橋は内(うぢ)神への橋は、内(宇治)橋となる。浄川媛命(瀬織津姫)が宇治橋の手前(葛木ヒメ神社)に祀られているのは伊勢神宮の内宮と同じである。つまり、大津御所と岡豊(お皇)城の間は広大な内宮であった可能性がある。山崎闇斎がここに逗留して垂加神道を大成するのも、こう考えると納得できる。明治期と戦後にどのような破壊活動があったのだろうか。少なくとも戦後において土佐清水の唐人駄馬遺跡世界三大ストーンサークルと言われる遺跡、香美市の日ノ御子の巨石、仁淀川河口の岩神は全て爆破、破壊されたことはわかっている。

自分も訪れたことのあるアイルランドのニューグレンジ遺跡の構造を借りるなら、辰巳からの冬至の日の出でまず朝峯神社のニニギが照らされ、次に高天ヶ原山が照らされ、次に葛木男、葛木ヒメ神社のタカムスヒが照らされ土左大神(土佐高加茂大社)が照らされ、最後に北斗七星(七ツ淵神社)が照らされる。これを逆に辿ると日本神話の通りであり、星の部分だけが消されているのに気づく。この祭祀は当然、高貴な人(お皇)の再生の為の祭祀であることはすぐにわかる。

 

復活と再生の大地の神、サトゥルナリアはヨーロッパでも悪神とされてしまった。

 

伊勢神宮の内宮の元宮は朝熊(あさま)山とされる。高知の朝峯神社は女陰巨石信仰の山であり、高天ヶ原山の山頂遺跡も石器時代から続く遺跡である。岡豊の項で言及した高板山も巨石遺構である。

 

藤原京の着工は日本書紀の記述では690年だったが、最近の研究で着工が676年には開始されていたことが判明している。つまり天武天皇は、土左大神から675年に神刀を受け取った翌年から藤原京の建設にとりかかっていたのである。ここで問題になるのは、なぜとりかかりの年を誤魔化す必要があったのか?神刀一口とどうしても書かなければいけなかった理由とは何か?である。

 

ここまで読み進めたらおそらく誰にでもその答えはわかると思う。天武天皇はその後祟りでご崩御され、土佐の陸地は白鳳の大地震で沈没。既に上鴨、下鴨の地名が冠せられていたということだから、神社も条坊制もあったのだろう。京都の上賀茂神社や下鴨神社が創建されていくのはこの後のことである。

 

天の河を産んだ土左大神とは一体何なのだろうか?銀河を産むくらいだから相当な宇宙的な存在である。天武天皇が恐れるのは当然のこと、雄略天皇ですら、一言主を恐れていた。一言主が土佐土着の神というのも以前、何度も書いた。

 

高知の星神社では、ご神体に過去、堕ちてきた隕石を祀っている神社がある。

 

そういえば、古代、夜須沖に隕石が堕ちて、嶺北まで津波が来たという伝承を聞いたことがある。近くには天忍穗耳尊を祀る石舟神社がある。

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