土左国分尼寺はどこか(序) 0.14

土左国分尼寺論

①全国の国分尼寺

 国分寺からの距離

 伽藍配置、南北線

②国分尼寺成立の背景

③背景から読み解く国分尼寺の位置推定

④地名と構造から読み解く国分尼寺の位置推定

⑤現存する構造物から類推する国分尼寺の位置

 

上記のような形で、土左の国分尼寺論を始めたいと思う。

 

おそらく、この問題が解かれる時、日本の古代の謎が明らかにされるのではないかと思う。

謎というのは、なぜ夜、日没、月、星に対する信仰が昼、太陽、日の出の信仰に変わっていったのか?

 

まず前回、高天原山と土左高賀茂大社との間に内宮があるということを指摘した。ほぼ、そこは前提にしたい。それとタカアマハラとタカマガハラは同じ高天原という漢字でも一方は、高尼原を意味し一方は高禍原を意味するので、ダブルミーニングでこれまでの価値を落とし込める手法をとっていることにも注意したい。このことがあまり理解できない方には、メルロポンティなどをお勧めしたい。

 

この切り口から内宮ないくうと外宮げくうを紐解いていくと、お宮を現在でもクウと呼んでいるのは高知県人だけである。おらんくはよく知られた土佐弁として定着しているのは言うに及ばず、一宮をいっくと読むのは高知と新居浜だけである。

このクウが後の色即是空の空と習合していくのである。もののけ姫のシシ神さまの身体はクウの構造になっている。古代日本人がお宮に入っていくのは、そのクウの体内に入らせてもらうということである。修験道では、この部分を継承し、胎内巡りなどの修験馬場が全国に無数に存在する。

外宮は豊受姫を祀るが、やはりこの姫も食うを司ります。高知では、岡豊“お皇”の元になったとも言われる豊岡上天神社があります。最初、山頂にお宮があったとされています。ここが外宮比定地です。

 

しかし、内宮も外宮も国分川の氾濫によって、水の底に沈んでしまう位置にあります。熊野の大斎原同様、おそらく内宮も外宮もそうだったのでしょう。その周りには、船岡山、妙見山、祈念山、高天原山、介良三山など小高い信仰の山々が連なります。天は尼であり、雨であり、海女であり、甕であり、月、星、水というものを司っているということが見えてきます。このような、星と女神の信仰が内宮と外宮と北斗七星を祀る一宮の高賀茂があったのだから、おそらくは誰かにとっては都合が悪かったのではないでしょうか。

その内宮自体を司っていたのが葛木氏だった。葛城皇子の母、斉明天皇の伝説が今でも生々しく残っている高知の朝倉。これらの女神、北斗七星、水信仰というのはおそらく斉明天皇の時代まで続いたのでしょう。

四万十市の一宮神社に受け継がれてきた5世紀代とされる七星剣は斉明天皇が朝鮮に出兵する時、なんらかの祭祀用として用いられたのかもしれない。

 

西が尼の転訛といわれるように、西は斎にも置き換えられた。四天王寺が西を向いているのも同じ信仰の形である。国分尼寺がサイという響きから類推される場合もあるようである。

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