週末カフェという贅沢ライフスタイルは、複業の最前線であると思う。
平日、カフェを遊ばしておいて週末だけカフェを営業するというのは、資本主義的には丸赤字である。家賃を払っていてはとても成り立たない。不動産価値の利回りが完全に算出された都市圏では到底、出現し得ないライフスタイルである(資本主義的な余程の金持ちを除いては)。
不動産価値の比較的低い地方都市においてのみ週末カフェの複業が成立する。殆んどの場合、親、親戚から貰い受けたが、貸さずに自分の趣味で営業しているというパターンだろう。これこそが既に資本主義を超越しているのだから面白い。貸せばお金が入るのに(当然、賃貸に出しても借り手が居なかったというパターンもあるだろうがここではそのパターンは除外する)敢えて赤字になるほうを選ぶ。赤字になって潰れるというのはありきたりだ。赤字になってもどこまでも潰さない、それを社会起業と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
お金がないから潰れました、お金がないと生きていけない。という巨大な戦後資本主義的価値観の中で、お金がなくても大丈夫、という週末カフェ複業は巨大なアンチテーゼである。社会貢献という言葉があるとするならば、、思い込みのブロックを外すのが最も大きな社会貢献だろうと思う。
じゃあ、どうやって週末カフェ複業は成り立っているんですか?と聞かれれば
いや、そもそも成り立ってすらいない。
と答えよう。それが答えなのだ。
そもそも店を成り立たせる必要なんかないんだよ、来てくれてる人と雑談して酒飲むのが、この世の最高の至福なんだから、お金を貯めてそれ以外のことを妄想する必要がない。
ここまで来ると完全に高知化したということになると思う。
あと先の事を考えてない、というのは当て嵌まらない。土佐弁が日本語の中で最も合理的であるように、生粋の土佐人も恐ろしく合理的である(最強の物理学者寺田寅彦や日本語を死守した馬場辰猪、国家と憲法を誰よりも深く理解した植木枝盛など、合理的土佐人の代表格は枚挙にいとまがない)。
お金を貯めてどこかに向かってる人間を見て、“なんちゃじゃない”と一刀両断して毎日酒を飲んでるのが余程、現実的で合理的である。