私たちが共有する価値という名のカーニバル 0.06

ちょうど、今週、高知では県知事選と市長選の投票日であるから書いておきたいと思う。

私たちの大きな間違いは、投票して後に民主主義という価値を共有しようとしているところだ。本来は、民主主義的につながり、その結果、そのつながりと価値が社会の一般常識となり社会通念となり、これからの社会を動かす思想となることである。

これを考えて頂ければ、選挙時に右や左とネガティブキャンペーンを行い、我こそはヒーローであるぞと言わんが如く1人の若者を演じ、仕立て上げ、悦に入ることが如何に馬鹿らしいことであるかがお分かりになるかと思う。

 

例えば、私たち日本人が縄文時代より継承してきた、自然を愛し、隣人を愛し、繋がりと良き酒良き肴、そして芸術を愛する心と魂は揺るぎないものである。ここにひとつ、我々は日本人としての大きな価値を共有している。そしてその価値の共有化が私たちの通貨“円”への信頼の根底であるということは言うに及ばないことである。

ただ、この価値の共有が今、崩れて来ていて、他人を騙して金儲けする者、嘘をついて人を出し抜こうとする者、自分よりも弱い立場の人間を攻撃し、強い者に媚びる者。これらは本来、日本の伝統から大きく外れた外道、下賤の者の為せる事とされてきた。

 

それらがひっくり返って下賤が下賤を呼び、日本人の普通の在り方と言うものが見えなくなっているということである。それはひとえに、そのような人物が日本から突如として姿を消してしまったことに大きな要因がある。

 

ただ、我々は立派な日本人を無数に歴史に持っている。その蓄積に感謝し、通貨の価値を保持したいならば、私たちは必死に学問に励まなければならない。単純にそれしか道はない。私たちの先祖も同じように学問を為した。現在、インターネットや本屋に出回るような安っぽい言葉遊びではない。魂から迸る知性の芸術を我々の先祖は幾重にも重ね、私たちの過去に君臨している。

 

それらに対する尊敬と畏敬によってしか私たちは存在し得ない。何かを疑い、何かを批判し、何かに惑わされる。そんな回りくどいことをしなくても我々は我々のままで在りて在るもので良いのだ。其れ同士で繋がれば、ひとりでに選挙は変わり、当主も変わり、社会も変わる。

 

政治のレベルは国民のレベル。会社のレベルは社員のレベルである。

 

一体、我々が何を共有しているか、真摯に見つめ、その価値を金銭に捉われず拡大再生産してゆく。一人一人が、お金に捉われ、名声に捉われ、欲望に捉われていることに目を向け改善していけば、下賤の当主は存在出来なくなる。

 

誰かではない。ひとひとりなのだ。

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