イザナミ、光明子、子供食堂

資本主義が悪い方向に傾いたウォール街発”強欲(Greed)資本主義”がグローバリズムといかにも尤もらしい名を冠して広がっていったのも束の間、ドナルド・トランプ第45代アメリカ合衆国大統領の誕生によって、”レクサスとオリーブの木”は完全にその矛盾を露呈した。

悪いのは、資本主義でもプロテスタンティズムでも武士道でも騎士道でもない。健全な資本主義というバランスを失ってしまったのが、この世界の不調和の原因なのだ。

われわれ日本人は、もう一度”資本主義”というベールに包まれた価値をとらえなおす必要がある。2人いれば2倍以上、3人いれば3倍以上の効率を生み出すはずの資本主義がなぜ2人いるのに、生産性が1/2になったり、1/3になったりするのか。その原因を究明しなければならない。

と同時にわれわれは、何のために生産しているのか?の目的すら持ち得ていない状況に追い込まれつつある。松下幸之助が”無尽蔵に物質を至らしめる”と言って以来、その目標は達成され、誰もその後の日本哲学を唱えられずにいる。

そもそもその”物質”とは、大東亜戦争でABCD包囲網で日本国が国内へ導きいれることができなくなってしまった”物質”である。それは単に”石油”という意味ではない。備中高松城の水攻めに遭っても絶対に降伏しない・負けない物質のことである。

つまり、われわれの戦後資本主義はABCD包囲網ですら打ち破ることのできない強い国家を作るために作られてきたはずである。それが今やどうか。経団連の強欲資本主義者や自民党の政治屋たちは単なる保身と自己繁栄のために若者や弱者を包囲し、搾取し、骨抜きにするための施策を悉く発布し、ウォール街の先兵に足り得る西洋の植民地主義の亡霊の如く太平洋を彷徨っている。

大東亜戦争の清算をするならば、われわれがわれわれの資本主義社会主義をもって世界に対して独自体制と世界観を発信していかなければならない。それは決して憲法改正やTPP締結などの枝葉末節の未来ではない。

光明皇后が設立した悲田院や施薬院、野口英世の愛ある行動が大和の資本主義の源ではないか。土佐南学の祖、谷時中は仏教から還俗し、畑を開墾し、それを息子の学費とした。これが日本経済思想の興りである。

資本とは個人資本ではなく社会資本であることは当然至極のことである。それを強欲資本主義に流され、日本人が個人資本と解釈するようになったのは、全くもって勉強が足りないからである。社会に資本とシェアできる価値があるからこそ私たちは等価で価値を交換できる。それが通貨を通貨足らしめる意味である。外国とは歴史も価値も異なるからこそ、そこに為替が発生する。どれだけ日本の金(gold)が不当に外国に流出したかを考えれば、為替の重要性に気づくはずである。

逆に、為替が必要のない普遍性の高いものは、愛や平和や安寧などの形而上の価値である。為替が必要のない価値観が似かよった民族・国家同士は同一通貨圏・共栄圏を確立できる。これがEUやTPPに先んじて70年以上も前に私たちの先祖が打ち建てた思想体系である。早すぎたからこそ実現することは叶わなかった。

光明子がキリシタンであったとする説があるように、神道や仏教、キリスト教には当然のごとく真理の近似値がある。われわれが大いなる和のバランス感覚で真理を分かち合い世界の安寧に貢献していくことこそ日本人のとるべき道である。

かつての日本型経営の企業は、多くのメセナ活動を行い、外国企業ですらその活動の層は厚かった。その社会貢献の資源を内部留保で囲い、こそこそと役員報酬にするという厚かましい私利私欲はまさに日本人の質を落としたと言える。公も皇も神もすべてコウである。神聖なものを失い、形而上の価値を見失ってしまった民族に明日はない。保育園や幼稚園をうるさいからと言って排除するような餓鬼集団が発生している以上、われわれは闇を照らしていかなくてはならない。イザナミが1500人の子を産ませようとイザナギに言ったのは他でもない、この四国である。

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