原始の知性と野性

高知県財政の自主財源が30%しかないことを考えれば、高知県全体としては、ボランティアをやっているどころではないというのが当然の解である。外貨を稼がなければならない。高知県にとってそれが唯一神にならなければならないことは0.5秒で答えが出る。

しかしながら、高知県人はボランティア精神が旺盛で無料化の全体主義化が時に当たり前となることがある。

なんでもお金に換えてしまう都市から地方都市高知に帰ってくると毎回驚かせられるが、高知がビジネスが育たない土壌であると嘆いていても仕方がない。それを革命しなければ、南海地震後、高知市は中央部の浦戸湾に市民1/3の10万人の死体が浮かび(これは最悪の場合の想定だが最悪の想定が出来ないものが最高の結果を出せるはずがないというのは簡単なロジックであるし、東京電力のケースを分析すれば、戦後日本人の科学的思考というものを100%疑問視せざるを得ない)、復興予算もとれず、一文なしどころかギリシャよりも酷い借金を抱えた世界でも類を見ない債務超過自治体となる。

政府からは、核のゴミ捨て場に認定され、新たな基地建設地となり、除染事業に名を借りた不適切な公共事業の跋扈する汚れた土地と化す。

それでも良いのか?と問えば、ほとんどの高知県人がそこまでは考えられていない。

ただ、津波サミットで発言していた高校生を始めとする若者は、多くの現実を正しく受け止めている。

ただなんとなく、自分の名声や名誉のために行動するのではなく、子や孫のことを考えて行動するのが普通の日本人のとる行動である。

高知県の財政構造を変えなければ、高知県には一番早い死が訪れる。ということは、戦後体制を一番早く変えなければならないのは、当然、高知県となる。この当然の帰結(雨が降ったら地面は濡れる、というような)を理解しえない人間が存在することにも驚きを隠せない。

資本主義構造を変えるということは、高知県にとって夢とか理想というレベルの問題ではない。それをやらなければ、地震後、子どもたちが99%の確率で飢えるのである。

東日本大震災の20倍以上の損害を出すと予想される南海トラフ地震後も国の財政が復興予算を組めると考えるのは、頭の中身がお花畑としか言い様がない。

正しく怖れるという原始の知性と野性をいつから日本人は失ったのだろうか。枝葉末節の事象に時間を浪費し、1日でも早く気づけば助けられた命を日々、見捨てている。

構造を変える行動で繋がっていこうではないか。変革できない行動は、エネルギーの浪費、無駄でしかない。

社会起業によるコミュニティビジネスのみが強欲資本主義を凌駕し、高知県が独自性を活かしつつ世界レベルで戦い優っていける道である。

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