MMTと日本人の幸福論 0.32

【Modern Monetary Theory (MMT)】 に関して

この理論の最も特異な考え方は、自国通貨を持っている国は貨幣を刷っても刷っても国家はデフォルトしないというところにある。

この考え方の前提として【国家の永続性】というものあるが、まずこのあたりから間違っているのではないか。既に【近代国家は瓦解】しており、GAFAに代表されるコングロマリットによってコント―ロールされている状態と言っていい。今回のコロナ禍、どの国家も被害を被っている。つまり、この騒動を創った主体者は国家ではないということである。近代国家は翻弄され、互いに争わされ闘争状態に向かわされている。この世界の潮流の最前線を見抜かずに経済政策や経済理論を展開するのはもはやケインズと同じ古典派と言わざるを得ない。

 

【価値】に関して

刷っても刷ってもデフォルトに陥らない、円への信用も薄れない、というのも何か基本的なところが抜けた誤解ということが言える。上記の状態というのはわかりやすく言えば、スーパーマリオの無敵状態が延々と続く状態であり、その状態のスーパーマリオに価値を感じる人間がいるだろうか?ジャンプのタイミングを間違ってウリボーの目の前に着地したり、のこのこを蹴って自爆する瞬間に悔しさを感じるからこそ、無敵状態に意味があるのである。

 

だからと言って、私は日本人今まで通り頑張れ、と言っているわけではない。以前から書いているように”働かざるもの食うべからず”撤廃論者である。

 

この”働く”という部分の考えを変えなければならないのである。自分は日本でBlogサービスが始める前からWebで書き続けているのだが、それは決して働いているわけではない。自分の才能を活かしているのである。自営業者や起業家にとってはこれを働く、と捉える人は多いと思うが、会社勤めになるとこれは全く異なる捉え方となる。生活の為に働く、という考え方になるのだ。働かなくてもいい、活きていれば、粋でいればそれだけで良いのである。そこに金をとことん刷るシステム、それが必要である。

 

穏健派の中にはMMTと完全雇用をセットにして考えている方もいるようだが、自分の考えも当たらずも遠からずである。もしMMTの理論的側面を一部導入するなら自分の才能を活かしている状態のところにバンバン金を刷るというのならokである(その判定は困難を極めるが)。

 

前提は【近代国家は瓦解している】に関して

上記であるから、既に起こったものとして逆に【円】で国家(道州制)をつなぎとめる。各州は2次通貨を発行する。2次通貨は文化的差異の少ない世界のローカルと2次通貨統合をできるようにする。例えば、四国銀行とスイスのローカル銀行が2次通貨の中央銀行を合同で作る。仮想通貨のような不確実性はない。ただ、この場合、1次通貨との為替が非常に問題になる。現在は円が非常に弱いため、スイスに行けば物価が高いと感じる。四国がスイスローカルと通貨統合すれば通貨価値が同等になるわけだから、スイスに行きたい日本人が一旦、四国通貨『zeyo』に換金してスイスに行くようになる。この差が大きくなればなるほど四国銀行は手数料で儲かるわけだから、金融庁がこれを野放しにできない。そして他州も挙って魅力的な通貨圏と2次通貨統合をしようとする熾烈な通貨統合合戦となる。

これで第一地銀は息を吹き返すが、都銀は非常に危うい状況となる。現在ではこれは突飛な考え方に見えるが、道州制と地方創生とをセットに考えれば、全く陳腐ではなくなる。金融庁の権力自体も分散化され労働基準監督署の位置づけになるのではないか。

 

AMEROやTPP、あるいは英国のユーロ離脱の問題は、通貨統合の主体が非常に大きな権力を持つということに依る。TPP反対論者(私もそうであるが)は、アメリカが必ず裁判に勝つという状態が不公平であると考える。

 

2次通貨による通貨統合はそれらで≪苦々しい想いをした、している地域による逆襲≫になる可能性がある。裏の想いは【金融グローバリズムへの懐疑】である。2次通貨統合が金融グローバリズムに当たるのではないかと考える方もいるかもわからないが、それは【金融グローカリズム】である。FTAと同じようにどちらか一方のローカルが破壊されるようならば、その通貨統合を停止できる。【金融グローバリズム】は当然、停止できない。ローカルがどこまで破壊されても世界と競争して勝って儲かっていくことだけが善とされる。これはコロナウィルスによく似ている。低酸素状態で病状は悪化しているにも関わらず、普通と変わらない生活ができる。ガクッと来て病院に行くと肺炎が手の施しようの無いくらいに重症化している、という状態である。

グローバリズムは普遍的でもなければ幸福の使者でもない。富の収奪とローカルの破壊を成功神話で覆い隠す単なる世界的ウィルスである。

 

結論は、MMTは近代国家論と同時に語られるべき問題であって、貨幣論のみをスポットで語ることにあまり意味がない。つまり、”太平洋戦争の失敗の本質”⇒”東京資本主義の失敗と反省”⇒”近代国家の終わり”⇒”これからの日本の国家構造”の4つの流れを全て合理的に語ることができる人でなければMMTは何ら意味を為さないということである。

 

残念ながら、今の日本にはこれをできる人がいない。司馬遼太郎は生涯、日本とは何かを突き詰めた巨人であったし、加藤周一氏は失敗の本質を生涯突き詰めた日本人であったし、山本七平が見せてくれた側面は素晴らしいものであった。

 

日本の経済思想というものは、近江商人や土佐南学のように仏教と儒教のミクスチャから産まれてきたものである。当然、西洋の経済学もキリスト教からの派生である。であるから、信仰心がないものが経済を語るのは、どこか違和感を感じる。これは流石に中空構造ではだめだろうと思う。

 

金を刷って刷って刷りまくって動かなくても生きていける時代になった時に果たして日本人は幸せだろうか?明治時代の日本人が言った一等国とはそういうものだったのだろうか。中江兆民は、フランスの共和政下の自由から土佐独自の自由を語ろうとしたし、馬場辰猪は日本語の文法を英語で表し、英語第一言語導入説に徹底的に反対したし、新渡戸稲造はキリスト教精神に相当するものとして武士道を世界に紹介した。このように世界に比肩する精神文化・文明を英語で必死に紹介した過去の日本人と比べても、金を刷っても刷ってもデフォルトにならないから、というのはあまりにも安易すぎるというか稚拙すぎるという感が否めない。

 

経済理論、経済政策も後藤新平が如く【生物学の原則】に基づいて行われるべきであり、【日本人の幸福論】抜きの議論は、私からしてみれば単なる経済理論ヲタクにしか見えない。もう少し、日本の歴史と大局を見通したものにならなければならない。

 

ナインティナイン岡村の発言もパチンコ店の営業もケインズに言わせれば、欲望を持った物体であり、それらは指標に合致した予測通りの動きをしているということができる。批判する集団が日本経済の主体だとするならば、日本国は古典的な経済政策を脱し、ヌーベルな経済状態へと達しているはずである。しかし、現実はブラック企業が蔓延し、様々な階層の改革も遅々として進んでいない。ならば、私たちすべてが古典派とみなすのが自然ではないだろうか。政治家のみならず日本国民全員に聖人君子を求めるが、周りの皆がそのような状態になった時に一番困るのは完璧ではない自分自身なのではないか。自分はそんな社会はまっぴらごめんだし、不完全な自分であり続けたいし、不完全さが許容され称賛され続ける高知の文化がこれからも続いて欲しいと夙に願うばかりである。

週休3日ベーシックインカム 0.31

アフターコロナ世の前兆として経団連から週休3日制の提言が為される模様

これはかなり驚くべきことであるが、細かく見ていくと、企業側の利益にも適った必然的な選択と言える。つまり、否応なしに私たちの働き方は望むべき方向に舵が切られたのである。

既に先進的な企業では週休3日制は導入されていたが、ここにきて全企業にまで波及する形で提言が為された。教育における”9月始業”という考えも、硬直化した日本社会がstaticからdynamicに移行した瞬間の出来事と言えよう。

 

そもそも日本企業は週休3日に移行できる能力を持っている。それを実現できなかったのは、”働かざるもの食うべからず”、”私たちの世代は週休1日だった”、”モーレツ社員こそ鏡”などの上の世代の感情的妄想のせいである。内部留保を減らしてでも社員の幸福を考えるのが、『日本的経営の根幹である』とは考えなかったのである。

 

そもそも企業に属することは、安心と安全の為であったにも関わらず、昨今の企業文化は社員を虐待するためだけのリスク装置になっていた感がある。

それが、『テレワーク基本、週休3日制、人権侵害の軽減、複業は社内ベンチャー』に移行すれば、起業家精神を持った人たちが企業に戻って来て日本企業が再生する可能性はある。

今後来る最大級の減益減収の中で日本企業の資本投下の先は当然、設備投資などではなくアフターコロナの世界における新しい日本人の働き方などの組織内の改革であろう。

 

SHARPがマスクを作り始めるというのは誰も予測できなかったし、したくはなかっただろう。ただ、それは決して悪いことではない。柔軟さこそがわれわれに残された唯一の希望である。

 

『テレワーク、週休3日、日本総正社員、複業推進、ベーシックインカム、無税減税』という松下幸之助も目指した日本人が目指せるべき地点がおかしくなったのは、金を持っているものが偉いという誤った情報を発信し始めた東京資本主義の影響が大きい。芸能界やマスメディアなどはその売り子として日本人の幸福をすり減らしてきたことにもっと目を向け自省すべきである。

 

ひとりひとりが企業内、企業外で奮闘し、”働かなくとも食うべきだ”に認識を変えていかなければならない。それが明治時代の【富国強兵・殖産興業】の洗脳から抜け出す第一歩である。もう日本国は強くなっているし、働きすぎることによってグローバリズム配下のどこかの国の暮らしや環境を奪って破壊していることに週休3日になった余分な1日を使って目を向けその世界の再生に尽力すべきである。

 

それは自分の住む地場のコミュニティの再生にもつながる。

アフターコロナ 予測不可能Pulse 0.30

皮肉なことにコロナ禍によって、日本人自身は、非国民報道や積極的に他国との戦争を推し進めたのが国民自身であるという歴史的事実を知るようになってきている。

日清・日露戦争でも戦争を望んだのは国民であるし、軍縮を提示した浜口雄幸を襲ったのも好戦的な日本人の同調圧力の結果である。

軍国主義者によって国民が戦争に巻き込まれたという教科書の認識は全くの間違いである。日本人は危機的状況に陥ると、人権や教養よりも暴力と権威に頼る傾向が強くなる。水戸黄門がまさにその代表である。そうではなくキリスト教世界における公会議のように論理と合理性によって世界を構築していかなければならない。それが日本においては自由民権運動であり、国会開設運動であった。

 

変容待ったなしの状況の中、重要な事実がある。世界のニュースを見れば明らかなように既に私たちは程度の差こそあれ、世界中で同じような生活様式、思考習慣によって生きているということが皮肉にも証明もされた。これはグローバリズムの少なからずの正の側面と言えよう。

 

ただ、ここでわれわれはグローバリズムに最後のとどめをさせなければならない。鎖国などではなく、ローカルを悉く潰す悪質なグローバリズムに、である。それは私たちの思考習慣にも紛れ込んでいる。東京がNYがParisがすごいんだという根拠のない共同幻想などである(都会なんて何もすごくないおらが村が一番、という逆のパターンもあるので注意したい)。”同じ日本人同士でも言語が通じないという現象は多分にこのような互いに乖離した意識と密接に関わっている”

 

コロナに対してもそうだが、アフターコロナの世界では、物事を正しく捉える、ということが重要になる。東京が上で地方が下という考えにしがみつけばつくほど、今後は問題が生じる。youtuberを見れば明らかなように、mass(大衆)という集団自体が既に瓦解したのである。当然、戦後のmassによって成立していた東京資本主義メディア、不動産(日本経済のファンダメンタルズ)、政治が根底から崩れ去ったのである。

 

コロナ禍によってもたらされた現実は、哲学的に予言された未来と同一である。つまり、現在平穏を保っている地域、業種、階層が未来においても安定を保つということである(南海トラフ地震という特別な事象がこれに含まれるかどうかは機会を改めたい)。

 

以前にも書いたように、現在コロナ禍で変化を余儀なくされている多くの事象は、問題が引き延ばしされていなかったとしたら既に解決済みのものばかりである。

 

その最たるものは、富と情報を集中させることの巨大なリスクである。この思考習慣を抜け出せないのは、日本のビジネスの世界で未だ、”選択と集中”という古い資本主義文化の思考習慣が残っているからである。

 

これを新しい時代の”未選択と分散”のスモールビジネス型に変えなくてはならない。とにかく傾向と垣根を超えて、見返りなしで雑談(資本投下)する。これによってもたらされる結果もマーケティングしない。なぜなら新しい大衆はそれを見抜いているからである。つまり、それほど現代はビジネスの手法が筒抜けな時代なのである。

 

それよりも全く予測できない地域や人物が脚光を浴びる。当然、笑いも興味も人間が予測できないところからの純粋なパルスである。

問題は寛容さ 0.29

芸西村の海、もうエメラルドグリーンに

自転車道、一人しか見かけなかった

コロナのリスクよりも波打ち際でのリスクの方が高いのではないか、という事態

 

様々なリスクがあるが、芸西村や手結の駐車場は閉鎖されてないため、少しのキャンプ客がいるが、混んではいないので、リスクはかなり低い。ただ、行かなかったが、ヤシーパークは駐車場が混んでいるので、少しは規制する必要があるのではないかと感じるレベル。種崎のように全面禁止にすると真面目なキャンパーが困るので規制で入場制限が必要と思われる。

コロナの突然変異による第二波、第三波を想定するならば、早めに対策をとっておく必要がある。密集度合などの数値データで制限・規制できる価値尺度を高知県独自で構築する必要があるのではないか。すべてを自粛、というのはあまりにも正しく怖れている状態ではなく、不用意に怖れ過ぎている状態と言える。

経済を保つ、というのが課題なのではなく、寛容さを失いかけている日本人に対して、寛容さを提供できる県でありたい、と思うのである。それは、これまで高知県はおっきい家族やき、と言い続けてきた責任でもある。

ここで徳島県民のように、県外客に石を投げるような行為をするのであれば、高知家はただの狼少年だったということになろう。

なぜ、世界は存在しないのか 0.28

ドイツの若き哲学学者マルクスガブリエルの問い

 

ここにおける“世界”とは、哲学学における形而上の世界のことである。

 

ポストモダンと言う時、既にそこには相対化が為されており、絶対的な真実がそこにないものとするスタンスである。

 

安倍首相を批判する左翼がいるとして、その人たちに、じゃあ一体ポスト安倍後の世界を日本がどのように作っていくのか、と尋ねた時に何も思想を持っていない。これが、ガブリエルの言う“存在しない世界”である。

 

これを“存在する世界”にするためには、例えばフランスの左翼ナショナリズム、マリーヌルペンのように、反動ではなく民族主義を単に貫くこと。これを絶対的スタンスと言う。

 

安倍首相がいてもいなくても、自分は郷土一国主義で同じことをやり続けている。周りにもそのような人間はたくさんいる。ここにおいては、“世界は存在している”と言える。

 

ただ、高知の場合でも東京に汚染された“存在しない世界”方が8割いるので、同じ方言を喋っていても言語が通じない、という現象が多々起きる。外国人を連れて来て英語で喋っているけど、日本人と日本語で喋るよりも圧倒的に言語が通じ合うという体験を何度もした。

 

この逆転現象に日本人は本当にもっと留意すべきである。戦前まで世界で類を見ないほどの形而上の巨大世界を作り上げていた形而大国日本。キリスト教世界以外にそのような世界があっては困るので戦争になってしまったが、今となってはむしろ西洋人の方が禅を心底、求めている。

 

“存在する世界”の住人になる為には、まず東京から脱出することである。何故ならば、東京資本主義は最後の最後まで太平洋戦争の失敗の本質に対する何の提示や解決策も生まなかった上に、自らが率いてきた戦後資本主義の着地点とその時代に対する自省すら出来ていない。富の集中とはそれだけ責任が伴うものである。

 

巨大金融資本に不正コントロールされた今、それらを無効化出来るのは、知性のみである。質素に地道にローカルでしつこく生きていくだけで郷土は強固になる。

 

存在する世界は常に足元にある。行動は全てを変え、問いは解を与える。

 

浦戸湾1周 0.27

自粛中ということもあり自転車で浦戸湾1周

渡船の待ち時間も含めて4,5時間程度

免疫力を高める軽いボディワークになる

コロナの関係で駐車場が閉鎖されているにも関わらず、意外と人の多い種崎海水浴場

が、釣りをする人たちも散歩する人たちも10m以上はソーシャルディスタンスをとっているように見える。人間よりも圧倒的にスペースの方が大きい。

であるから高知市が東京や大阪と同じようなやり方を選択するのはかなり疑問が残る。観光スポットを完全閉鎖して『入り鉄砲と出女』のような厳しい入出国制限をやるだけ(法律上無理ではあるが)で、県内経済をここまで落とさずにコントロールできたのではあるまいか。これだけを考えても国と自治体との関係性が正常でないことがわかる(この部分もまた昨日書いた以前から変える必要のあった側面である)。

なんにしても高知市内唯一の渡船が無料というのは素晴らしい。

高知市内及び周辺部は、どう考えても自転車乗りと釣り好きにとっては天国のように思える。

オフグリッドとエネルギーと食糧の高自給率を求められる社会が到来するなら高知県は最も早くそれを実現しなければならないはず。木質バイオマスの原料を森林率一位でカバーし、野菜の生産量、個体差を左右する日照率もほぼ一位でカバーしているわけであるので。

go home, stay local 0.26

①リモートワークはそれ以前にしなければならなかった(日本における働き方改革の側面)

 

②経済活動を抑制し、大気汚染の改善もそれ以前にしなければならなかった(世界における持続可能な環境を維持していくための取り組みの側面)

 

③首都直下型地震の被害を最小限に食い止めるための都市機能分散化、それに伴う地方創生(日本における政治的側面)

 

上記3つの側面から鑑みても、コロナ禍は日本人の悪い体質、”現状維持”を強制的に変化させる力を持っていることは明白である。

 

原発事故からのコロナ禍。これからやって来る首都圏直下型地震と富士山噴火。そこに経済活動の拠点を置くとてつもないリスク

 

どこをどう切り取っても東京に居住することは合理的ではない。

 

何代も続く地元が東京ならいざ知らず、東京に居住する多くは地方の人間である。

 

これからは、go home, stay local しなければならない

 

これは提案ではなく、日本人が生き残っていく為の義務である

 

コロナ禍が落ち着けば元の世界に戻るというのは全くもって楽観的過ぎる。今回旨味を知ってしまった個人投資家は第二波、第三波を期待する。その期待の寄せ集めが、この新しい時代の戦争に拍車をかける。

これを無効化出来るのが、日本における経済及び経済圏の完全分散化である。

 

中核市=資本主義

中山間=社会主義

 

何度も前のブログでも書いた通り経済思想のミクスチュアである。これは日本人にしか出来ない、もしくは出来てない。

 

日本国が最も成功した社会主義の国というのは、よく知られた事実である。

 

故に日本人はこの部分においては考え方を変える必要はない。変えるべきは行動だけである。

 

東京が中心である、という明治時代から始まった150年間の妄想を今ここで捨てなければならない。

 

捨てた者から栄える

 

 

いつの時代も禅は全てにおいてユニバーサルである。

日本人としての分散化 0.25

コロナ禍は、まるで”集中すること自体に何の意味があるのか?”を問いかけているようだ。

 

富を集約させてさらなる富を生み出していくという大都市の機能が失われた今、大都市に何のメリットがあるのか?アダムスミスの国富論はいい加減卒業すべきである。

 

この本質的な問いに気づいた人は既に”地方創生”が囁かれ始めた時に移住を決めていたと思う。

 

遡って考えてみてほしい。ITの世界では既に分散化は当たり前になっていたにも関わらず、都市経済圏は依然として集中化のままだったのである。

 

social distance を考えなくても、そもそも三密してない地方は、それ自体で感染リスクが低い。これは国民の健康と福祉を考えてもベクトルは成功している。

 

原発事故からの地方創生、そして政党政治の迷走、コロナ。

 

私たちに課されているのは批判ではなく創造

 

既に集中システムが形而上で否定されているにも関わらず、なぜ霞が関に目を向けるのか

 

そのこと自体が既に古いと言わざるを得ない

 

私たちは既に中央集権、オフグリッドからその先に進み始めている。

 

大都市が崩壊し、世界が同じテーマを共有するという環境はグローカルという言葉でしか表現できない。

 

怖れや差別はどの民族、地域にも顕現する。それをどのように乗り越えようとするのかに差異が現れる。

 

例えば、その差別をクリスチャニアがどのように乗り越えたか、どこかの自治政府がどのように乗り越えたか。。そもそも人権に意識が向いている土地ならば、そこに焦点が向くはずである。

 

日本のそれぞれの地域がそういう地点に目を向けて頂きたい。

 

ただ、フランスの第三共和政時に渡り(特にリヨンでの足取りに注目されたし)、”西洋の自由”を日本に紹介したのは中江兆民ではあった。その後、フランスの植民地主義に嫌気がさし、土佐独自の自由主義に回帰したのは皆の知るところではあるが。

 

伝染病が何度も流行った我が国で、それを極力抑える文化を作ってくれた先祖に感謝したい

地域マネジメント 0.24

コロナ禍によって試されていること

 

”グローバリズム”という謎の尺度を選択して来た人類は、コロナによってまた保護貿易の状態よりも悪い状態、完全な鎖国状態へとチェンジしてしまった。

グローバリズムにその原因を求めるという論調は当然、今、日本にない。

 

だが、当然、地球の裏側までなにもかも一瞬でつながってしまう時代。だからこそ制限が必要だという事、ローカルは金を払ってでも守らなければならない、ということにならないか。

 

大切なのは、唯一無二の個性、普通ならありえない独特な価値観や風土、そしてそれが許される文化、人間の集団、のような吹いてしまえばふっと消えてしまいそうな膜である。

 

曜変天目のように漆黒の知性の中に渋く光る言葉や所作

 

地方に行けば行くほど、そのような独特な個性が根付く国にならないか

 

金を持っていることがステータスになった東京一極集中の戦後55年体制

 

コロナ禍を以って完全崩壊したと言っていい

 

集中すること自体がリスクなのだ

 

 

派手な言葉や行動そのものがクソださく感じてしまう

 

だからこそ、鈍く光る渋み

 

沈黙は金、とはこういう意味ではなかったか

 

雑誌に特集されるようなぺライ地方創生ではなく

 

民族主義のくそヤンキーが持ち出すローカルなultima ratio(最高の理性)

 

でもそれは閉鎖的ではなく、常に世界に開かれている

 

鬼道の女王卑弥呼が魏と通商を試みようとした倭人伝の頃の日本

 

レイヤーが全く異なる文明世界の融合

 

日本人はそれができるはず、というよりは日本人はそれしかできない

 

民主主義、法治国家、人権、国会、政党政治、近代国家で仕入れたもの
悉く失敗している。戦後はその成功モデルが何なのかさえ見失っている。

 

サプライチェーンや集中型の国家形態が、天変地異や感染症が頻繁に起こる時代に不向きなことが既に証明されたといって良い。昨今の急激な気候変動の兆しを考えると、この形態がこの先、非常に非効率なものになる、と考えるのは合理的である。(ただ、隣国が異常な集中型の共産主義国家だということは安全保障の側面から考える必要はある)

 

今後は都市国家型になっていかざるを得ない。都市国家とはいっても日本では村落型国家という形になるのではないだろうか。

 

そこに現在の大学と同じようなものができ、地域マネジメントが最大の学問になるのではないか。細別は機械や重機、林業、電気(特に再生可能エネルギー)、経営(スモールビジネス)、コミュニティ経済学、環境、教育など

 

重要なことは、総合職を排して専門職を増やして来たことの逆を行うことである。ただ、単なる逆ではなく広く深くの人材を育成することである。

 

つまり、朝は古代のベネチアのように山と街の環境の関係性を熟慮した木の伐採の設計図をCADで描き、山に出かけ自伐・間伐をし、重機で細分化し、家の木材に、あるいはアートの材料に出来るまでの工程を半日で済まし、午後はそれを芸術的にあるいは、その地域でしかできないアートに昇華させるための会議と、これからのマーケティング、これまでの販路の見直しなどのローカルビジネスへの関与、そして夜は大学での地域マネジメントの講座の指南役、そして最後はローカルフードのブランディングと世界戦略、地元固定種の防衛と深化に関する打ち合わせ、最後に地元ワインと地酒のテイスティングに終わるというようなサイクルを一握りに人間がやるのではなく、皆がそのレベルに行けるような村落集合体を形成することである。

 

- グローバリズムはローカルを破壊するが、グローカリズムは互いのローカルを強化する –

 

単純に言えば、馬路村を2段階も3段階も上げた村落国家型共同体の形成である。故に構造的に最も近いのは馬路村だが政策的に最も近いのは梼原町である。

 

前回書いたように高知の人間が組織化すると非常に無法な体質になるが、なぜ先進的な取り組みの完成型が突然変異として現れて来るのか、自分でもよくわからない。ただ、それを問うことは、植木枝盛ほどの天才がなぜ土佐に生まれてきたのか、ということを問うことと同じほど無意味なことかもしれない。

高知の組織 0.23

地方で働く、という形には2種類の形がある。一つ目は、地方移住者に多い自営業で働く起業して働くという形。二つ目は、地方の組織に入り雇用されて働くという形。

一つ目は何ら問題はないが、二つ目の雇用されて働くというのは、東京で働いていた人にとっては、ほぼ苦痛でしかないということが言える(仕事以外の面で)

どういうことかと言うと、地方の組織は人権意識とか法認識が非常に低いのである。雇用者と対等であるはずの雇用契約を結んだとしても、いざ入ってみると、会社の方が優位、先輩社員の方が優位という認識がまかり通っているのである。これは明かに憲法違反であるし、西洋では考えられないレベルの支配構造でもある。

 

雇用される側が提供する労働に対する対価を雇用する側が対等に評価し、支払いを行うべきものであるはずであるのに、東京でも完璧ではないが地方では頭が狂いそうなほどぐちゃぐちゃな法認識が同調圧力として存在するのである。

 

労働基準監督所が取り締まりを強化すればいい、というような問題では無く、一般の人たちに”法の精神”がないということである。日本国憲法の基礎を作ったとされる植木枝盛の郷土、高知県においてすらこの状況は変わらない。というか、高知県の人間の多くは植木枝盛を知らない。であるから、法の精神などあるはずもない。ただ、自営業者、起業家は当然、その限りではない。県は、移住者に仕事の斡旋ということもしているようだが、この問題は由々しき問題である。

 

自分も、最近、海外を渡り歩き、高知へ移住してきた人から高知の組織の酷さを聞いた。差別意識が酷く、不平等、不公正、不誠実が横行しているようである。弱きを挫き、強きを助く、という戦後日本人の醜い特徴が地方で花開いているようである。当然、それは全てではないので誤解は免れたい。

 

よって、県は、起業の斡旋にシフトすべきであり、仕事の斡旋には慎重になるべきである。なぜなら、先ほどの移住者は、最後、高知を憎んで地元に帰っていったからである。海外を放浪し、日本全国も旅し、一番気に入った縁もゆかりも無い高知県に移住してきた若者が組織の価値観の野蛮さに驚愕し、憎んで高知を出ていったのである。

 

これは、まだそれほど明るみには出てないが、地域おこし協力隊を取り巻く体質にもこういう部分がないかを調査する必要があるのではないかと思う。もし、それがネガティブな結果を伴うものであるとするならば、高知県は非常に大きな損失と勘違いをしていることになる。

 

地産外商をいくら頑張っても、内なる敵をどんどん増やしているとすれば、いずれ高知のものは売れなくなるし、誰も高知家のことを信用しなくなるだろう。みんなあが大きい家族やき、というてもそこに不平等と不公正があるのであれば、笑い草である。子供たちを不公平に取り扱う父親がいる家庭などもはや家族でもなんでもない。恨み辛みを持って高知から出ていくのは当然である。

 

 

高知の組織

 

 

残念だが、大きな問題を孕んでいる