桃子さんを見ていると(良い意味で)権威を持つ者こそ思想を完遂できるのだ、と感じる。良い家柄に生まれてアートの王道を学んで、しかも天真爛漫で人格も人望も良い。その立場だからこそ、出来ること。そして、表現したいという根源的衝動と表現手段を持っている。そういう方が、この時代の今、高知に来てくれていることに素直に感謝したい。
戦後の日本社会では、1番手が切り開き、2番手が盗んで儲け、3番手が先達をこき下ろして善人づらするという構造が横行している。少なくとも江戸時代までの日本では先達は敬意を表され、今のような屈折したアメリカナイズの社会ではなかった。だからこそ、0、5ミリでも自分より進んだことをやっている方に出会ったら自分は敬意を表したい。決して自分はヒロイズムから安藤桃子を称賛しているわけではない。
0、5ミリでも進んでる人間に出会うと自分の思想を客観視出来ることに気付いた。東京でやっていたことを高知に持ってくることはWebがあれば容易だし、自分を支持する層が田舎に少ないのは、自分の支持層がニッチなマーケットであるからだと捉えていた。
この発想が間違いであることに気付いた。桃子氏のイベントは高知ではうけても東京ではうけない。だからこそのグローカリズムなのである。
これまで田舎でうけるものと言えば、田舎臭い地元発の洗練されていないイベント、もしくは東京からの有名人をヒーローに仕立て上げた七面倒くさいありがた迷惑なひとりよがり哲学押し付けイベントであった。
ここから抜け出したイベント2.0が突然やってきたのだ。突然ではないのかもしれない。0、5ミリの上映会の時から、桃子さんは試行錯誤していたのかもしれない。自分は見ていないので知る由もない。
このイベント2.0への突然の進化もかなりの驚きだ。1段上に上がったわけではない。何段も一気に飛ばした感がある。
日本人の才能はひょっとしたらこういうところにもあるのかもしれない。物事を深く理解せずに雰囲気でやり遂げてしまう。日本で唯一の革命と学術的にも証明された自由民権運動であるが、多くの場合は、ただ集まって酒を呑みたい土佐人が自由と平等を酒の肴にして騒いでいただけという意見もある笑
がー、とかブーとかの擬態語で押し切ろうとするのは、性根、土佐人と同じであると思う。