可能性の追求についての考察

都会から地方に移住して成功する。大学中に起業して地域活性化のヒーローになる。海外移住で億り人になる。

これらは全て、承認欲求と夢の狭間にある。ホモ・サピエンスだけが現実には存在しないものを信じることができたという説は非常に強い説得力を持つ。

夢を持たない人間は、ホモ・サピエンスとしては劣格で、だからこそ存在としてのエナジーが満ち溢れない。そう考えると荒唐無稽な夢を語る人間がなぜあれほどまでに興奮冷めやらぬ状態なのかの説明がつく。

そう我々は意味のない夢を持って良い存在なのだ。土佐の大風呂敷という言葉がある。おらんく(我が家)の池(浦戸湾)にはクジラが泳ぎよる。荒唐無稽なホラが土佐の代表するメンタルなのだ。イタリア人とかなり近いではないか。

失敗などということを恐れることもないし、恥ずかしむこともない。そもそも夢を持った時点でホモ・サピエンスとして成功したとも言えるのだ。

ありもしない現実とは、宗教が最大の装置であり、それによって我々は生きていると言っても過言ではない。

今日挫ければ、明日はまた違う夢を見ればいい。酒を飲んで好き勝手なホラを吹き、夢破れて山河あり。

ホモ・サピエンス最大の都市に今日も夜の帳が下りる。

可能性は失敗のためにある。

失敗しても人間同士の繋がりだけは残る。

それを深く洞察するならば、人間の繋がりだけが夢ということもできる。

だからこそ高知には人間の繋がりしかない。

金もない、産業もない、構想もない。

酒とホラと失敗。

失敗をする前に既に失敗している土佐の文化にひれ伏したい。

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