ファスト化される未来について、私たちがお金によって買収されるか、あるいは異なる価値に基づいて社会を構築していくか、その分岐点はあちらこちらに落ちている。
どこかの駅前の土地を買収する際、開発業者が地権者に対して提示する額は市場の売買価格よりも上かもしれない。しかし、その土地を買収し都市計画がなされた後で、その場所で開業するファスト企業の利益は、その土地の買収価格よりも格段に上である。
時に、開発業者は都市開発計画を知り、ファスト企業は造成後を見越して先手を打とうとする。当然、開発される土地は限られているわけだから、そこに参入できる企業は限られる。だからこそ先手必勝となる。このような争いの中に個人がついていけるはずもない。
ファスト化された未来においても、「便利になったねー」とか「ここも都会になったねー」ぐらいの感想しか出てこないのかもしれない。
のどかな田園風景があった町は、あっという間にファストロードサイド店舗が立ち並ぶ殺風景な街となる。
その中で私たちサブカルチャーが残っていく未来などあるのか。
その拠り所は、過去の遺物となった商店街、しかないのか。
対抗する措置として、近年では、住宅街へのサブカル的店舗出店が増大しているように思う。
街が”考える街”化するためには、そこに住むひとりひとりの哲学にかかっている。
開発業者とファスト企業のタッグ。それはまるで西洋植民地主義列強諸国とキリスト教宣教師に似ている。
「土地を売りませんか?あなたのために」と言いながら、その後やってくるのは夜中も電気がさんさんとするファスト企業
それを発展と呼ぶのか
その最終形態である東京の一極集中は既に終わり、分散化が急激に始まっている。
その分散化のエネルギーが行き着く先は当然、オリジナリティがある場所
そう、それはローカリズムがある場所なのだ。
ローカリズムがファストのアンチテーゼであることは明白だ。
東京から地方に移住してくる人たちの要望はローカル
逆に地方が望むものはリトル東京
このふたつのミスマッチに日本人はいつまで悩まされるのか
単純にわれわれは金銭に囚われず買収されずに、われわれのままで良いのだ
われわれ地方のカタチを突き詰めていく作業を淡々と永遠にやれば良い
土佐のスタイルは永遠にアナーキー
Webの時代が成熟し、ビジネスも関係性もコピー&ペーストが当たり前の時代
マーケットにおいて、他の追随を許さないオリジナリティを目指すなら、
絶対に世界のどこの土地にもあり得ないオリジナリティがある土地に住むのが自然だろう
そのオリジナリティがある土地が、もうすでに東京ではなくなっているのだ。
高知は、その候補地に十全足る資格を持っている。日本の中の外国と呼ばれることはもちろんのこと
外国のどこも、高知の全体主義的傾向を真似することはできない。
”自由”であることが結果的に”全体主義化”する土地など世界中どこにもあり得ない。
なぜならば、全体主義は自由を奪うものであるし、自由とは個人に限られる概念である。
従って、”国家の自由”などあるはずもない。国家に自由を認めれば、戦争する自由を認めなくてはならなくなる。
国家と戦争とは常に表裏一体であるからである。
話は長くなったが、ローカルがグローバルによって認められるためには、ローカルの内にある人がローカルの良さを認識し、維持し、あわよくばさらにそれを拡大していく気概と不断の努力を持たなくてはならない。
一瞬でも気を抜けばファストに買収され、気泡のような幸福論に幻惑されてしまう。
大金を得、豪邸に住んだとしても、100年後そこにローカリズムは残らない。結果はB29の爆撃跡と同じである。
吉田東洋暗殺場所、中江兆民生誕地、武市半平太道場跡、板垣退助丸山台。
同じように150年後、2200年代の土佐人がわれわれをどのように語り継ぐのか。恥ずべき歴史はあり得ない、今。