カーニバル0.04

明治時代以降ないし戦後以降、西洋化もしくは近代化によって日本のコミュニティは崩壊してきた。

フランスではコミュニティの再生がマンション住人たちによる自らの手で試験的に行われているところもある。

近代化とコミュニティ、おそらく互いに相反するものなのかもしれない。

一方で、ポートランドやクリスチャニアなど、特殊な民主主義が近代と平衡している場も存在する。

高知市もまた上記と同じように近代とコミュニティが絶妙に並存する都市である。カーニバル00のエンディングで登壇した受田さんの言葉を借りれば、5万人以上の人口を擁すれば、都市ということであれば、30万人口の高知市は大都市であると言える。

その大都市高知のコミュニティは、今でも機能している。何かおかしな政治的、行政的コミュニティではなく、誰かが誰かを掛け値なしで紹介してあげる、助けてあげる、役立ってあげるという自発的な優しさが未だに残っているという点において機能しているのである。

 

そう考えると高知市が世界の中において果たすべき役割は大きい。

 

何故ならば、天皇が世界最古の王朝であるならば、神話の時代から国境が変わっていない土佐は同じようなメンタルを持ち続けたと考えられるので、世界最古のコミュニティである可能性があるからである。

 

例えば、我々の祖先でもあるだろうとされるアイヌや沖縄の文化が近代化とうまく共存しているかと言えば、決してそうではない。

 

だが、土佐人は、不健全な資本主義を除く近代化には積極的に対応している。天皇制を近代化させるための宮廷政治家に土佐人が多かったのは、土佐人の第一特質に進取の気質というものがあるからである。

新しモノ好きなのに不健全な資本主義、コミュニティを破壊するような文化は真っ向から否定して、良いところだけ取り入れて、縄文時代から引き継がれてきた土佐の文化は少しだけ資本主義化した。ただ、それはいつでも棄てられる資本主義化である(吉田類の酒場放浪記が有名になるのは資本主義のおかげである。ただ、あの番組や書籍が失くなるからと言って吉田類さんがいなくなるわけではないように)。そういう意味では、土佐人の中には絶妙な大和のバランス感覚が備わっていると言ってよいだろうと思う。

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