田舎で子育て 欲求の根源 0.42

田舎で子育てをしたいという欲求は、人間の本質的欲求かそれとも、ノスタリズムか?

 

田舎という定義も、自分の場合は、東京に住んでる時は、高知全体が田舎だったが、高知市に住んでる今は高知市以外が田舎、という認識に変わっている、さらに言えば、子供たちをすぐに泳ぎに連れ出せるmy riverがあることが田舎、の定義になっているようなので、田舎の定義は話をする前にすり合わせをしておくことが必要だろう。

 

自分のmy riverの定義は、子供時代の記憶から来ているものなので、明らかにノスタリズムだろう。ただ、多くの人が漠然と考える田舎でのんびりと、結果はおそらく同じであろうことから、人間の本質的欲求とも言える。

 

田舎は基本、忙しいのでのんびりというのは基本、難しい。のんびりしてると友達の飲みの誘いにも応じれられないので、全く高知の生活はつまらなくなるだろう。高知に縁もゆかりもない人が移住して来て豊かな生活を送るたったひとつの秘訣は、一回飲みに誘われたら10回誘い返す、ことである。これを忠実に実行するだけで、恐ろしく人脈が広がる。単純な土地柄である。

 

その中で、中山間地域の親戚や地元の神祭に必ず誘われるから、そこにも顔を出してみる。これが2段階移住の2段階目のことである。自らが損得なしで奥へ入っていけばいくほど与えられる。損得なしで付き合いをすれば何も得られない。それは、日本のどの田舎もそうだろう。都市は擬似的な資本主義が成り立っているが、地方は当然、そうではない。

 

話はそれたが、田舎でののんびりした子育てを妄想する時、おそらくそれは日本の古き良き時代を感性的に妄想していて、中山間地域が地元の人にしてみれば、田舎を舐めるな、ということになる。どういうことかと言うと、夏は雑草で飲み込まれそうになるほど、草刈りに追われるし、しっかりとした対策をしないと猪や猿の被害で農業などとても出来ない。

 

ハンマーナイフや最新の草刈機で百人力の草刈りが出来ること、素手で猪を倒し捌ける野性味を持つこと、それと同時に地方の会社で働くなくてもいいインターネットを通した収入源があること、これが両立出来れば田舎はパラダイスであり、これから求められる日本人像もこれであるのである。

 

インターネットを抜きにすれば、資本主義以前の日本人は普通にやっていたことであり、私たちに出来ないことはない。ただ一つの問題は、戦後の資本主義の悪害で日本人が人付き合いの仕方を忘れてしまっていることである。損得勘定という資本主義の悪害を解毒すれば高知は何処まで行ってもパラダイスである。

 

田舎で子育て、というのは、何万年も自然と共に生きてきた日本人の資本主義に対する正常な揺り戻しではないか。それが日本人の本質と言えば本質であり、田舎でのんびりと、は、人付き合いを忘却せしめた戦後資本主義を自らの内の中で解毒すればおそらくそれは可能だろう。

 

百人力の草刈りをし、素手で鳥獣を仕留め、ラウンドアップを使い続ける年寄りを哲学的に捻じ伏せ、山の中に独立自尊のオーガニック農業を屹立せしめ、自家発の電気を自由に操り、自ら木を重機で切り出し、自らの手で家を建てる。インターネットの仕事で得た外貨で買うものと言えば、酒だけである。さすがに旨いIPAビールを作るのは難しい。そんなことをやってたら雑草に飲み込まれてしまう。

 

里山を一人で保っていくというのは恐ろしく難しい。ただ、その難しさを知っている人間が連帯すれば強い。それが巨大な政治的勢力になり、里人を凌駕していたのが、明治時代以前の日本の本当の姿である。

 

山人の気概を取り戻し、さっさと都会を離れ、猪にかかと落としを喰らわせる野性味と個性的なDIYを成し遂げられる芸術性と月夜にギルガメッシュを読むほどの情緒性を兼ね備えれば、私たちは真の日本人に回帰したと言えるだろう。私たちには圧倒的にそのスキルが足りてないのである。それが出来て初めて、田舎はのんびりしたものになるだろう。

 

戦いはまだ始まったばかりである。戦後資本主義の解毒。アレックス・カーらが言うように私たちの世代がラストチャンスである。

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