縄文 察しと思いやり 0.40

創造的破壊って言うけど、日本人は根が真面目だから意識的に落ちこぼれっていう風に自分を周りに認識させる必要があると思う。その方が後はあがるだけだから楽

自分は誉めて育てられたから絶対的な自信があるだけで、そうでない人は相対的な自信しかない。自信というものはその程度のものだっていう風に認識する必要がある。

 

つまり、他人はそれほど、自分を見てないってこと。自信があるかないかは、家庭環境で変わるだけだし、自信があるかないかは、育てられ方という曖昧なものをベースにしているということ。つまり、他人の評価なんていうのは、絶対的なベース、尺度なんてものは何もないということ。こういう部分においては、哲学的に高知はfreedomだと言える。

 

何故なら、全く噛み合わない話を延々とする場合がある。それは、高知の人間が価値尺度を合わさなければならないという常識を全く認識していないし、それを善だとも思ってないからである。

 

もっと深いところを言うと、酒を飲んで好き勝手言うことが人間の至高善だと思ってる。この無意識の哲学はどこから来たのか?これはハッキリ言って現代日本人の特質とはかけ離れている。

 

何度も言うようだが、ヴォルテールの心性が高知の飲み屋街には膜ってると言っても良い。酔い。この心性を自分は縄文だと認識している。

 

酒を共に飲むという共通の場を共有しながらも、とことんお前も主張しろよ、俺もお前の主張に侵食されずに潰れるまで主張し続けるからな、という“共有”と“独立”の同時存立こそ、西洋とは異なる東アジアの自由、縄文だと信じる。これをつまり【共存】と呼ぶ。

 

女も酒を浴びるほど飲みたいから、皿鉢の文化が生まれた。あまりにも身勝手な話ではないかと思ってみても、それは高知では普通なのである。

 

それが西洋では、キリストという名がつけられたり、法という名において説明されたりもしたが、未だに高知では酒解神という釈然としない神の名において執行中である。

 

高知県のお酒の消費量から鑑みても、資本主義にアンチテーゼを唱えているということはすぐにわかる。ただ、その縄文の心を失った人が感性で高知の感性に近づくのは少し難しい。何故なら、現代から縄文に戻れというのはコクだが、人間が進化し始めた過程をトレースする人間の成長過程において、縄文の段階で感性をストップさせておくことは可能であると思うからである。

 

つまり、子供時代に相手のことなど考えずに、無邪気に奔放に発言行動していた自分に戻れるなら、そしてみんながそれを普通だと思える社会に戻れるなら、自分たちは縄文だと言えるだろうと思う。

 

平安時代から私たちは、察しと思いやりの文化を育んできたけれども果たしてそれは必要だったのだろうか?優しさだけで十分ではなかっただろうかという疑問が残る。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です