クラスタを超える力 – おきゃくの本質 –

自分に居心地の良い場所。これをひとつのクラスタとする。

それは、家族であり、友達であり、会社の同僚であるかもしれない。

日本人は、このクラスタ内に人を呼び込み、新たな血が入って来なくなると内ゲバに移行する、という傾向を多分に持っている。

西洋人は、この〝クラスタ→内ゲバ〟という構図をあまり持ってはいない。より社会に開かれた感覚として自由と民主主義を共通化する。

日本人は西洋のように近代化を歴史として行っておらず、西洋の感覚を明治時代の日本人が輸入したに過ぎない。日本人が決して悪いわけではない。日本の歴史を客観的に直視し、自由と民主主義が無理だと気づかないことが悪いのである。

日本における〔自由〕とは、表題にある《クラスタを超える力》にある。

その力を持つ地域は、当然、南国の地である。open mind は〈風土〉によっても形成される。

近代化の歴史を持たない東アジアが、なぜ近代化風の文明を持つに至ったか。

それは、土佐人の自由すぎる精神性と主張し過ぎる哲学性にある。

それが【おきゃく】の本質である。

私が私である理由とは、全く逆の、私が私でない状態を生み出すおきゃく。

主張は変遷し、論理性を失っていく。

西洋の哲学者、文明ですら、最終的には論理性を失ってきた。

クラスタを超える力。

今、日本人が注目すべき哲学性。皆、それを望んでいる。

なぜ、自分は報われないのか。それはクラスタを超えられる力を有していないからだ。

自ら進んでおきゃくを荒らす。おきゃくあらしが巻き起こる。

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