民主主義が為し得るはずだと思い込む日本人の勘違い 0.12

0.05や0.01でも書いたように高知には自由と平等の感性が強く眠っている。その自由と平等の感性というのは縄文の感性である。

じゃあ、なぜその感性が他の地域に残ってないかと言えば、律令国家が広がっていく中で破壊されたのである。はるか東北まで胆沢城が築かれたように、蝦夷は徹底的に収奪された。九州は大陸から近かった為、鹿児島の一部や五島列島や姫島を除いて、縄文が残るという可能性は低かった。残るは沖縄と北海道と四国だが、大和朝廷の国家境界にはこの内、土佐しか入ってない。

国家境界の外側は討伐対象になるが、内側の辺境は島流しの対象になる。何故ならば、“祟り”という同じ文化を共有していたからである。

 

①大陸の帝国主義がそれほど無尽蔵に入って来てない

②大和朝廷の国家境界内である

③ミクロネシアやポリネシアなどの熱帯地方からの平和な価値観、熱帯ジャポニカなどの作物が伝播する土地

 

この3つの条件を備えるのは、冒頭の条件も加えると高知ということになる。吉野などの和歌山の一部も畿内から近いが特別な条件の下で守られてきた。雑賀衆や根来衆なども自由平等主義の際たるものだが、明智光秀や長曽我部元親と共に最後まで織田信長に対抗した。

 

この自由と平等と権威権力の戦いは、弥生時代から戦国時代、幕末を通じてずっとテーマになってきているものである。

 

であるから、ここからが本題だが、土佐がたまたま大和朝廷の境界内に存在し、自由と平等の縄文の感性を継承してきたが故に、自由民権運動によって日本は近代化出来たし、逆にそれがなければ日本はミャンマーのように軍事政権化していた。現に自由民権運動崩壊後、土佐人が下野してからは日本国はあっという間に軍事政権化した。

 

薩摩と長州が徳川を軍事的に滅ぼすと躍起になっていた時に、それをゆしたのが龍馬であったことも周知の事実である。

 

であるから、日本人の多くの勘違いが、現在の長州の政権で民主主義が為されるはずだと思い込んでいることである。ただの一回も長州が民主的であった試しはない。現在の安倍首相の振る舞いは高杉晋作と同じではないか。

 

歴史を勉強すればこれらのことはすぐにわかることである。

高知化(こうちけ) 週末カフェカーニバル0.11

週末カフェという贅沢ライフスタイルは、複業の最前線であると思う。

平日、カフェを遊ばしておいて週末だけカフェを営業するというのは、資本主義的には丸赤字である。家賃を払っていてはとても成り立たない。不動産価値の利回りが完全に算出された都市圏では到底、出現し得ないライフスタイルである(資本主義的な余程の金持ちを除いては)。

 

不動産価値の比較的低い地方都市においてのみ週末カフェの複業が成立する。殆んどの場合、親、親戚から貰い受けたが、貸さずに自分の趣味で営業しているというパターンだろう。これこそが既に資本主義を超越しているのだから面白い。貸せばお金が入るのに(当然、賃貸に出しても借り手が居なかったというパターンもあるだろうがここではそのパターンは除外する)敢えて赤字になるほうを選ぶ。赤字になって潰れるというのはありきたりだ。赤字になってもどこまでも潰さない、それを社会起業と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

お金がないから潰れました、お金がないと生きていけない。という巨大な戦後資本主義的価値観の中で、お金がなくても大丈夫、という週末カフェ複業は巨大なアンチテーゼである。社会貢献という言葉があるとするならば、、思い込みのブロックを外すのが最も大きな社会貢献だろうと思う。

 

じゃあ、どうやって週末カフェ複業は成り立っているんですか?と聞かれれば

 

いや、そもそも成り立ってすらいない。

 

と答えよう。それが答えなのだ。

 

そもそも店を成り立たせる必要なんかないんだよ、来てくれてる人と雑談して酒飲むのが、この世の最高の至福なんだから、お金を貯めてそれ以外のことを妄想する必要がない。

 

ここまで来ると完全に高知化したということになると思う。

あと先の事を考えてない、というのは当て嵌まらない。土佐弁が日本語の中で最も合理的であるように、生粋の土佐人も恐ろしく合理的である(最強の物理学者寺田寅彦や日本語を死守した馬場辰猪、国家と憲法を誰よりも深く理解した植木枝盛など、合理的土佐人の代表格は枚挙にいとまがない)。

 

お金を貯めてどこかに向かってる人間を見て、“なんちゃじゃない”と一刀両断して毎日酒を飲んでるのが余程、現実的で合理的である。

「世界の芸術思想運動と高知のアートのこれから」0.10

例えば、高知のアートシーンから下記のような運動が沸き起こってくる可能性はあるのでしょうか?それとも、もう既に起き始めているのでしょうか?

①アイルランド文芸復興運動イェーツやジェームスジョイスなどの偉人を輩出し、その後アメリカの様々な芸術にも移民によって影響を与えたとされるアイルランドの芸術運動

②ビートニクヒッピー文化の基となった世界を巻き込んだニューヨークアンダーグラウンド発のウィリアムバロウズやゲーリースナイダーらによる芸術運動。ゲーリーは鈴木俊隆に禅を学び、宮沢賢治の翻訳なども行っている。「禅はユニバーサルなんだ」という名言も彼によるものである。

③シュルレアリスム、ダダイズム主にフランスから始まった芸術、思想運動。日本では中原中也や坂口安吾が有名

④化政文化葛飾北斎、歌川広重、良寛、安藤昌益、本居宣長他多数の偉人を大量に輩出した江戸発、日本史きっての文化芸術思想運動

 

 

高知には既によさこいや土佐弁ミュージカルがあり、ミクロでは土佐弁ブログや土佐弁音楽も若干あります。

伝統的なものとしては、津野山神楽や絵金、物部村のいざなぎ流などがあります。

その他、高知県梼原町を舞台とした宮本常一の土佐源氏を全国で演じられている坂本長利さんもいます。

つい最近のことで言えば、安藤桃子さんがカーニバル00の中で高知は縄文だ、を連呼していました。縄文ブームが吹き荒れる今、高知から縄文的なるものを融合しながら新たな芸術運動として発信していくことは可能でしょうか?○○では過去に高知の縄文性、原始性からの土佐人論を幾度となく議論し蓄積してきました。それを作品と連携しアートとして発信していくことは出来るのでしょうか?

①から④までの過去の広範囲なアートの勃興、そして上記の高知の現状などを踏まえて、高知のアートシーンが今後、これまでとは異なるユニバーサルな勃興、攪拌の時代となることは有り得るのでしょうか?あるいは、そうするためには、今後何が必要でしょうか?(安藤桃子さんの高知での活躍なども踏まえて)

高知で愛されるポンコツ ゲンリ0.09

高知で資本主義が発達しなかったのは、ポンコツ、つまり不完全さが支持される文化があるからである。肩書きや名声よりもいかに雑談が出来るかあるいは如何に返盃が上手いか多いかによって高知の人物評価は為される。

資本主義社会から見れば、圧倒的なポンコツが飲み会の席では支持される。要するに、高知の社会は飲み会の席の拡大版だから、昼の世界でもポンコツが潜在的に支持される。

仕事もそっちのけで、昼間から道中で年寄りとベラベラと延々と喋り倒してる大人がいるとしたら、その人は積極的に支持される。決して、仕事しろとはならない。資本主義的に見れば完全にポンコツであるにも関わらず。

これをもっと深く掘り下げていくと、高知の人間はとにかく自分の主義主張を言いたい、ということに尽きる。それを互いに聞き合えばいいのだが、お互いに異なった主張をするもんだから、さらにヒートアップして、自分の主義主張の深度が深まっていくというポンコツさをもっている。

であるから、下手に年寄りに主張すると延々と返り討ちに遭うというパターンも想定しておくべきである。

これに酒が入ると収拾がつかなくなるということは、高知の人間にとっては折込み済みだが、県外から何も知らずに移住してきた人は、想定も理解も出来ないだろうと思う。高知の自然は雄大でダイナミックだが、高知の人間は決してそうではない。

原理主義的で過激である。ただ、常に言いたいことを言ってるので、他人に対しては優しい、それだけが取り柄である。

高知の郷土愛と原理主義 ゲンリ0.08

金光堂、TSUTAYA高知とものランキングで令和の皇室、反日種族主義、百田尚樹の著作が上位につけている。高知の良く知られていない一面である。

 

うちの両親も優しい両親である(あった)が、原理主義が凄まじい。野菜は絶対高知県産、他県の刺身なんか食えるか、徳島は×、中韓は◯◯だ。とネット右翼よりもガチ保守の価値観。これは保守というよりも、汚いことが嫌いという精神性から来ている。それが結果的に自民党支持に繋がっているが、今回、選挙を闘った松ケンは恐らく、高知の年寄りのほとんどが、この超原理主義者であるという想定を全くしてなかったように思う。

ただ、今回、マーケティングしたところに拠ると、自民党がムカつくから一杯食わせてやりたいという保守層もあったようなので松ケンのほうに票がある程度入っているかもしれない。

要するに、松ケンがスローガンにしていた“誰も取り残さない社会”に反応した県民は自分の周りには1人もいなかったということであり、そんな生易しいことを言ってもひ弱にみられるほど、高知の年寄りは肝が据わっていると見たほうが適切であるということだ。

 

そうでなければ、どろめ祭りのような生死を分けるお祭りなんか誰も受け入れないだろうと思う。鬼龍院花子を想定して選挙戦を闘わなくてはならなかっただろうということでもある。

“天気の子”は南総里見八犬伝か カーニバル0.07

遅ればせながら、“天気の子”をレイトショーで11月22日に公開終了寸前で見てしまった。驚異的作品である。“君の名”を超えるとは思ってなかったし<諏訪大社の元宮を蓼科山山頂に重ね合わせる絶妙なセンスのインスピレーションが凄くて強烈に焼き付いている>、名作が連続するほどの才能は、現代日本社会では無理なんじゃないかな<例えば司馬遼太郎は戦前の日本陸軍での体験が生涯を通じての作品を作り上げる衝動になっていたからこそブレない柱があった>、と感じていたので、驚きでもあった。

大好きなジブリも、〈ナウシカ、ラピュタ、もののけ姫、千と千尋〉以外は、自分とは少々ベクトルが異なっていて、自分的には自分の線とはズレていると捉えてしまう。この“ズレてる”、“ズレてない”の線引きも不思議で、天気の子に関しては、オープニングの2、3分で完全にストライクに入ったので、新開監督が狙ったのではなく、もともとこれがドストライクに入る層が一定数存在すると考えた方が自然?であるとも思える。

 

冒頭部分は、やっぱりイティハーサを連想させる。 カルト的には当然、イティハーサのカルトさの方が上だろう。しかし、それを一般化、あるいは文学化するのは新開監督の才能の賜物だろう。

 

細かい部分はまた改めて追記していこうと思う。

私たちが共有する価値という名のカーニバル 0.06

ちょうど、今週、高知では県知事選と市長選の投票日であるから書いておきたいと思う。

私たちの大きな間違いは、投票して後に民主主義という価値を共有しようとしているところだ。本来は、民主主義的につながり、その結果、そのつながりと価値が社会の一般常識となり社会通念となり、これからの社会を動かす思想となることである。

これを考えて頂ければ、選挙時に右や左とネガティブキャンペーンを行い、我こそはヒーローであるぞと言わんが如く1人の若者を演じ、仕立て上げ、悦に入ることが如何に馬鹿らしいことであるかがお分かりになるかと思う。

 

例えば、私たち日本人が縄文時代より継承してきた、自然を愛し、隣人を愛し、繋がりと良き酒良き肴、そして芸術を愛する心と魂は揺るぎないものである。ここにひとつ、我々は日本人としての大きな価値を共有している。そしてその価値の共有化が私たちの通貨“円”への信頼の根底であるということは言うに及ばないことである。

ただ、この価値の共有が今、崩れて来ていて、他人を騙して金儲けする者、嘘をついて人を出し抜こうとする者、自分よりも弱い立場の人間を攻撃し、強い者に媚びる者。これらは本来、日本の伝統から大きく外れた外道、下賤の者の為せる事とされてきた。

 

それらがひっくり返って下賤が下賤を呼び、日本人の普通の在り方と言うものが見えなくなっているということである。それはひとえに、そのような人物が日本から突如として姿を消してしまったことに大きな要因がある。

 

ただ、我々は立派な日本人を無数に歴史に持っている。その蓄積に感謝し、通貨の価値を保持したいならば、私たちは必死に学問に励まなければならない。単純にそれしか道はない。私たちの先祖も同じように学問を為した。現在、インターネットや本屋に出回るような安っぽい言葉遊びではない。魂から迸る知性の芸術を我々の先祖は幾重にも重ね、私たちの過去に君臨している。

 

それらに対する尊敬と畏敬によってしか私たちは存在し得ない。何かを疑い、何かを批判し、何かに惑わされる。そんな回りくどいことをしなくても我々は我々のままで在りて在るもので良いのだ。其れ同士で繋がれば、ひとりでに選挙は変わり、当主も変わり、社会も変わる。

 

政治のレベルは国民のレベル。会社のレベルは社員のレベルである。

 

一体、我々が何を共有しているか、真摯に見つめ、その価値を金銭に捉われず拡大再生産してゆく。一人一人が、お金に捉われ、名声に捉われ、欲望に捉われていることに目を向け改善していけば、下賤の当主は存在出来なくなる。

 

誰かではない。ひとひとりなのだ。

大津御所体制と邪馬台国 カーニバル0.05

11月6日上梓の藤田達生教授著「明智光秀伝」が凄まじい。自分が以前、ブログで書いたことが全て網羅されている上にさらに細かく広範囲にカバーされている。

専門領域では、既出かもしれないが、高知市大津に存在した大津御所体制の意味をここまで深く理解している研究者の方はおそらく日本中どこを探してもいないだろう。

それほど、一条内基と一条内政を取り巻く人脈は歴史を圧倒的なダイナミックさで動かしていた。藤田教授が書かれているように、もはや本能寺の変が誰が黒幕かというレベルではない。光秀人脈と秀吉人脈が古来より大和の始原を分けてきた土佐と阿波の決定的な攻防に巻き込まれ本能寺の変が起きたのである。

阿波は日本の中心である淡路島を統治し易く畿内にも近い。朝鮮半島からのそして黒潮からの新文明をダイナミックにそして同時に受け取ることによって育った土佐人の進取の気質。邪馬台国の2期作と植生、素潜り分身(入れ墨)文化を考えると黒潮が直撃する沖縄か土佐しか、その国が成立することは有り得ない。

邪馬台国が滅亡したとされる同じ時期に高知香長平野の巨大弥生遺跡田村遺跡も滅亡している。

 

このバックボーンを理解しつつ、土佐一条氏、大津御所体制を見ていくと様々な歴史の真実を理解できる。

 

山崎の戦いで敗北した明智方の武将が多数、長宗我部氏の岡豊城を頼っている。川を挟んで大津御所。北岸には葛木男神社、南岸には葛木女神社。葛城襲津彦が祀られている。一言主が土佐土着の神であったということも以前、書いた。

そしてカモ大御神、アジスキタカヒコネ、土佐高賀茂大社、神刀一口、白鳳の大地震で没した上鴨、下鴨、黒田という地名の巨大な陸地

学術的に証明された日本で唯一の下々からの革命運動、自由民権運動が土佐から起こったのも、偶然とかたまたまなどではない。古代より朝鮮半島、黒潮からの文明をダイナミックに吸収し自由と平等で焼き直し六合(クニ)をとりなすパワーがある。これは私たちが縄文の頃持っていたパワーである。

いつしか、富と権力によって我々の国は徹底的に破壊された。土佐の文化とは富と権力を徹底的に排除する文化である。しかし、それと同化しまた廃除する。土佐が開いていくことは土佐のためではない。みんなのためである。

 

長曽我部元親も葛城襲津彦も卑弥呼も植木枝盛も坂本龍馬も土佐を在地とする人物は皆、連邦制+天皇制を志向していた。

 

だからこそ、元親は明智光秀、足利義昭らとともに新連邦国家を目指していたのである。

 

安藤桃子を分解すると藤原氏が天下を安んじ桃を戴く

 

桃は古代の女神の象徴で有る。

 

縄文時代が1万5千年とするならば弥生時代が始まって今で2千年ちょっと

日本史を俯瞰するならば、縄文への揺り戻しがおこってもおかしくはない。GAFAを弥生の最終形態と見るならば、私たち日本人の脳はそれを良く理解出来るのかもしれない。それほど我々の遺伝子には縄文の記憶が眠っていることに眼を向ける必要があろうと思う。

それは素晴らしい蓄積であり、金銭の貯蓄よりも大変な知性なのである。分離のゲームによって我々の真の価値は収奪され、記憶と遺伝子はリライトされていく。酒を呑み返盃して踊り狂い、豊かな柑橘類を胎内に採り入れれば、私たちの身体はリヴァイヴしていく。

大和の真の伝統が何処に眠っているのか。今となっては手に取るように明らかである。

 

カーニバル0.04

明治時代以降ないし戦後以降、西洋化もしくは近代化によって日本のコミュニティは崩壊してきた。

フランスではコミュニティの再生がマンション住人たちによる自らの手で試験的に行われているところもある。

近代化とコミュニティ、おそらく互いに相反するものなのかもしれない。

一方で、ポートランドやクリスチャニアなど、特殊な民主主義が近代と平衡している場も存在する。

高知市もまた上記と同じように近代とコミュニティが絶妙に並存する都市である。カーニバル00のエンディングで登壇した受田さんの言葉を借りれば、5万人以上の人口を擁すれば、都市ということであれば、30万人口の高知市は大都市であると言える。

その大都市高知のコミュニティは、今でも機能している。何かおかしな政治的、行政的コミュニティではなく、誰かが誰かを掛け値なしで紹介してあげる、助けてあげる、役立ってあげるという自発的な優しさが未だに残っているという点において機能しているのである。

 

そう考えると高知市が世界の中において果たすべき役割は大きい。

 

何故ならば、天皇が世界最古の王朝であるならば、神話の時代から国境が変わっていない土佐は同じようなメンタルを持ち続けたと考えられるので、世界最古のコミュニティである可能性があるからである。

 

例えば、我々の祖先でもあるだろうとされるアイヌや沖縄の文化が近代化とうまく共存しているかと言えば、決してそうではない。

 

だが、土佐人は、不健全な資本主義を除く近代化には積極的に対応している。天皇制を近代化させるための宮廷政治家に土佐人が多かったのは、土佐人の第一特質に進取の気質というものがあるからである。

新しモノ好きなのに不健全な資本主義、コミュニティを破壊するような文化は真っ向から否定して、良いところだけ取り入れて、縄文時代から引き継がれてきた土佐の文化は少しだけ資本主義化した。ただ、それはいつでも棄てられる資本主義化である(吉田類の酒場放浪記が有名になるのは資本主義のおかげである。ただ、あの番組や書籍が失くなるからと言って吉田類さんがいなくなるわけではないように)。そういう意味では、土佐人の中には絶妙な大和のバランス感覚が備わっていると言ってよいだろうと思う。

酒二バル0.03

桃子さんを見ていると(良い意味で)権威を持つ者こそ思想を完遂できるのだ、と感じる。良い家柄に生まれてアートの王道を学んで、しかも天真爛漫で人格も人望も良い。その立場だからこそ、出来ること。そして、表現したいという根源的衝動と表現手段を持っている。そういう方が、この時代の今、高知に来てくれていることに素直に感謝したい。

 

戦後の日本社会では、1番手が切り開き、2番手が盗んで儲け、3番手が先達をこき下ろして善人づらするという構造が横行している。少なくとも江戸時代までの日本では先達は敬意を表され、今のような屈折したアメリカナイズの社会ではなかった。だからこそ、0、5ミリでも自分より進んだことをやっている方に出会ったら自分は敬意を表したい。決して自分はヒロイズムから安藤桃子を称賛しているわけではない。

 

0、5ミリでも進んでる人間に出会うと自分の思想を客観視出来ることに気付いた。東京でやっていたことを高知に持ってくることはWebがあれば容易だし、自分を支持する層が田舎に少ないのは、自分の支持層がニッチなマーケットであるからだと捉えていた。

この発想が間違いであることに気付いた。桃子氏のイベントは高知ではうけても東京ではうけない。だからこそのグローカリズムなのである。

これまで田舎でうけるものと言えば、田舎臭い地元発の洗練されていないイベント、もしくは東京からの有名人をヒーローに仕立て上げた七面倒くさいありがた迷惑なひとりよがり哲学押し付けイベントであった。

ここから抜け出したイベント2.0が突然やってきたのだ。突然ではないのかもしれない。0、5ミリの上映会の時から、桃子さんは試行錯誤していたのかもしれない。自分は見ていないので知る由もない。

このイベント2.0への突然の進化もかなりの驚きだ。1段上に上がったわけではない。何段も一気に飛ばした感がある。

 

日本人の才能はひょっとしたらこういうところにもあるのかもしれない。物事を深く理解せずに雰囲気でやり遂げてしまう。日本で唯一の革命と学術的にも証明された自由民権運動であるが、多くの場合は、ただ集まって酒を呑みたい土佐人が自由と平等を酒の肴にして騒いでいただけという意見もある笑

 

がー、とかブーとかの擬態語で押し切ろうとするのは、性根、土佐人と同じであると思う。