近代とリゾーム

アダムスミス以降、西洋的文明を享受する私たちは、”富“と”幸福“を久しくも遠からず真理の近似値として認識してきた。(もちろん私たち日本人の幸福は太平洋戦争終了時まで富ではなかった。それが能動的か受動的かの議論は別にして)

その富が国民国家を離れて、別世界の次元へ移行しようとしている今、個々人の心の中で国家=富=個人=幸福という漠然とした図式が崩壊しようとしている。

日本経済の奇跡の発展は、総中流階級という価値を生み出したことにあると言われる。皆が持たない時代から皆が持つ時代へ。その幸福への自己同一性は与えられたものであったとしても客観的事実として存在する。

現在の日本は、持った上にプロダクトライフサイクルが変わらず永遠に物理的革新が必要な社会になっている。1990年代に既に盛田昭夫氏は、米国のマネーゲームを批判し、井深大氏はNew Age へと舵を切り、松下幸之助氏は無税国家を思想的に志向した。

私たち日本人が富の発展を延々と繰り返す才能を持つ民族かと言えば必ずしもそうとは言えない。むしろ苦手なほうだ。

であるから、我が国の発展は決して米国に追随することでも中国に追随することでもない。

 

ー ヘーゲル的な世界樹かあるいはリゾームか ー

 

個々人の中でも論理的に捉えようとしたことが、みるみるうちに中心地点が変化し、定義自体が意味のないものになってしまうリゾーム的時代が到来している。

富か夢か、それともやりがいか。着地点のよくわからない乗り物に乗る前の無意味感を捨て、何かに呼応する勇気と持続性。そして蜘蛛のように待つことの重要性を認識することも必要ではないだろうか。

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