先日、高知で開催された安藤桃子さん主催のカーニバル00というイベントのオープニングシンポジウムに行ってきた。日本において”シンポジウム”というものが、形骸化してから久しい。それはアートにおいても同じである。アートが資本主義に負けるなど、本来あってはいけないことが日本では簡単に起きる。そして日本人はその可笑しさに気付かない。
しかし、桃子さんのこの会は、とてつもなく面白いものであった。茂木健一郎さんがしきりにその情熱の根源を知りたがっていたが、最後までその答えを桃子さんはうまく答えられなかった。その根源の部分を推測するのはなんとも楽しい。しきりに桃子さんは、高知の縄文的風土を説いていた。
その意味を理解するのは、日本人ではなかなか難しいのではないかと思う。外国に長い間住んでいないと、日本人の無意識の支配被支配、差別被差別の感覚に気付きにくい。西洋人の感性に近づき、自分の日本人的感覚を客観視できた時、初めてこの意味がわかる。
その上で高知に来ると、衝撃を受けるのである。世界を放浪した後に、高知に定住しようとする人が多いのはこの為である。
端的な説明をすると、日本人が海外に行くと西洋の”自由と平等”の感性の前にどうしてもひれ伏してしまう。日本人の感覚とは全く異なる上に、日本人の感性があまりにも未熟であることに気づかされるからである。
そこから感性の格闘を長年、繰り返し、”結局、私は日本人(西洋人みたいに振舞えないしなれない)”の境地に達した人が高知に来ると衝撃を受けるのである。
西洋とは、全く異なる”自由と平等”が目の前に存在するからである。しかも、それは日本的で心地いい、と同時に新しくもある。それが桃子さんの言うところの”縄文”である(はず)である。
かつてゲーリースナイダ―が、禅がuniversalであると言ったように縄文もuniversalなのである。
折口信夫がマレヒトと定義した遠方からの来訪者をもてなすのはなにも土佐のお客、だけではなかった。日本全国の縄文はそのようにして来訪者をもてなし、酒を飲み、どんちゃん騒ぎをしていたのである。日本神話的には、はるか彼方からの来訪者、えべっさんを祀っていたのである。
白鳳の大地震の時も、日本人は不謹慎にも日本中がどんちゃん騒ぎをして、土佐の陸地が沈没し伊豆の大瀬崎が浮かび上がったことを神の顕現と喜び、ふんどしを神域に祀った。
