高知の組織 0.23

地方で働く、という形には2種類の形がある。一つ目は、地方移住者に多い自営業で働く起業して働くという形。二つ目は、地方の組織に入り雇用されて働くという形。

一つ目は何ら問題はないが、二つ目の雇用されて働くというのは、東京で働いていた人にとっては、ほぼ苦痛でしかないということが言える(仕事以外の面で)

どういうことかと言うと、地方の組織は人権意識とか法認識が非常に低いのである。雇用者と対等であるはずの雇用契約を結んだとしても、いざ入ってみると、会社の方が優位、先輩社員の方が優位という認識がまかり通っているのである。これは明かに憲法違反であるし、西洋では考えられないレベルの支配構造でもある。

 

雇用される側が提供する労働に対する対価を雇用する側が対等に評価し、支払いを行うべきものであるはずであるのに、東京でも完璧ではないが地方では頭が狂いそうなほどぐちゃぐちゃな法認識が同調圧力として存在するのである。

 

労働基準監督所が取り締まりを強化すればいい、というような問題では無く、一般の人たちに”法の精神”がないということである。日本国憲法の基礎を作ったとされる植木枝盛の郷土、高知県においてすらこの状況は変わらない。というか、高知県の人間の多くは植木枝盛を知らない。であるから、法の精神などあるはずもない。ただ、自営業者、起業家は当然、その限りではない。県は、移住者に仕事の斡旋ということもしているようだが、この問題は由々しき問題である。

 

自分も、最近、海外を渡り歩き、高知へ移住してきた人から高知の組織の酷さを聞いた。差別意識が酷く、不平等、不公正、不誠実が横行しているようである。弱きを挫き、強きを助く、という戦後日本人の醜い特徴が地方で花開いているようである。当然、それは全てではないので誤解は免れたい。

 

よって、県は、起業の斡旋にシフトすべきであり、仕事の斡旋には慎重になるべきである。なぜなら、先ほどの移住者は、最後、高知を憎んで地元に帰っていったからである。海外を放浪し、日本全国も旅し、一番気に入った縁もゆかりも無い高知県に移住してきた若者が組織の価値観の野蛮さに驚愕し、憎んで高知を出ていったのである。

 

これは、まだそれほど明るみには出てないが、地域おこし協力隊を取り巻く体質にもこういう部分がないかを調査する必要があるのではないかと思う。もし、それがネガティブな結果を伴うものであるとするならば、高知県は非常に大きな損失と勘違いをしていることになる。

 

地産外商をいくら頑張っても、内なる敵をどんどん増やしているとすれば、いずれ高知のものは売れなくなるし、誰も高知家のことを信用しなくなるだろう。みんなあが大きい家族やき、というてもそこに不平等と不公正があるのであれば、笑い草である。子供たちを不公平に取り扱う父親がいる家庭などもはや家族でもなんでもない。恨み辛みを持って高知から出ていくのは当然である。

 

 

高知の組織

 

 

残念だが、大きな問題を孕んでいる

ローカルシンキング 0.22

“自分以外はみんな馬鹿”は、一体いつから始まったのか

 

日本は、西洋とは似てあらざる”個人主義“と称されるものを半ば先進的な感覚、あるいは肯定的な受け止め方で捉えてきた。それを今になって振り返ってみれば、ただの病的な感覚をマスコミを巻き込みながら病的に信奉してきたと言って良い。

 

つまり、それは単に日本社会の破壊でしかなかったということである。隣に誰が住んでいるかわからない状態を作った先に東京は、なんの日本史の課題解決も提示していない。

 

それは、太平洋戦争の社会的な反省が出来ていないこととも通じる話でもある。

 

もう、既に、戦後資本主義および55年体制は失敗に終わったと令和元年の今、号令を宣誓を発しなければいけない状態である。

 

我々の平等意識は失われ、[今だけ金だけ自分だけ]の戦後資本主義哲学は令和の時代になっても究極化し続けている。

 

移住、ローカル、分散、は当然、それらに対するアンチテーゼである。

 

これを端的に表わせば、[未来のため、金だけじゃないんだ、出来るだけみんなと一緒に]である。

 

これを胡散臭く感じてしまうことこそ、私たちが克服しなければいけない問題なのだと思う。決して手段や結果が問題なのではない。全ての問題は、私たちひとりひとりのメンタルの中にこそある。

私たちが見た資本主義の出口とは何だったのか0.21

「移住」というフェーズが終焉し、大きく分けて4つのタイプに分かれている。

①単純に飽きたから元の場所に帰った

②思ってたものと違うから、半ば憎しみを持ちつつ帰った

③新たな家族と出会い、「移住」から「生活」へとフェーズが移行した

④移住が続いている

 

私たちが見たものは、東京資本主義とは異なるもうひとつの日本的な資本主義だったのは間違いがない。ただ、それはほとんどの場合、うまくいっていない。

最もうまく成功をおさめているのは、家族単位での成功である。

つまり、ある程度webを利用しながら、自然の中で個性的な活動、収入源を持った家族多能主義の到来である。

これは、新しい日本の経済モデルに成り得る。ただ、それがゼロサムゲームになれば、当然、幻想の地方創生となる。

そうならない為に我々はどうすれば良いか?

 

答えはシンプルだ。創造的な経済活動で他と重複しない市場をとっていく。

 

それともう一つ重要な要素は横の繋がりを保てるネットワークがあるかどうか、である。

 

これが何を意味するかと言えば、我々が東京資本主義を深化させていく中で失った地縁、血縁の失地回復運動、レコンキスタである。

私たちが夢見た田舎でのスローライフとは、楽しい仲間たちと愛する家族たちと、であったはずである。それがどこか大局を見失うばかりに、おらが村自慢になったり、おらが自慢、ひいてはそれが内ゲバ的なゼロサムゲームをも引き起こす。

これでは、東京資本主義同様、生産性が低い日本民族の弱点が露呈した形となってしまう。

 

そうではなくて、世界が恐れる日本人の要素とは、同調圧力ではなく、同調膨張である。同じものが同時多発的に発生し、それが急速に有機的に繋がっていく。この爆発力は日本人でしか発揮できない。技術大国日本は、技術力が日本人にあったわけではなく、厳密に言えば、同調膨張があったからこそ、技術がものすごいスピードで革新され、世界を席巻したのである。

 

私たちは先進国など目指す必要などない。既に先進国の座から陥落したように、我々は独自国家でしかない。

我々が目指すべきは、共栄圏であり家族圏である。これは高知家とも相反しない。既に巨大洋上風力発電は他県に圧倒的に距離を開けられてしまったが、原発などさっさとやめて南海トラフ巨大地震に対応した洋上発電に切り替えなければならない。

 

当然、家族単位ではオフグリッド。これは既定路戦である。

 

資本主義とコミュニズムの共存、これが日本型資本主義の本来のあり方でもある。

 

バブル崩壊以後、ウォール街資本主義を取り入れ、【仮の成功】を収めた日本の経営者たちは猛省して日本人に戻らなければならない。我が国に家族主義を持たない資本主義など必要ナシ

谷地法華寺廃寺0.20

たまたま土佐市の谷地法華寺廃寺へ行ってきた。土佐国分尼寺の線は薄いが候補地でもある。

楼門、神木、仁王像は秀逸。このような場所に集落があること自体にも驚くが、古代寺院廃寺があることにも驚きだ。南路志によれば、仁王像は運慶作。見た感じ、運慶ではなさそうだが、誰が彫ったのかは非常に気になる。

 

周囲には空海伝説が多い。隣りの虚空蔵山は有名。斗賀野、戸波、加茂に囲まれた山

 

虚空蔵は国造なのかもしれない。このような山は国見山とも呼ばれることも多い。明らかに吾川郡であるのに、本山氏の史跡があった。本山氏は都佐国造、尾立足尼の末裔とも言われる。

 

鏡川の尾立あたりも少し時代が下るが、蓮台寺という古代寺院があった。国造と古代寺院は切り離せない。昔はお寺が役所を意味したわけであるので、当然といえば当然ではあるが。

 

帰りに麓の酔鯨土佐蔵で生酒を購入

 

土佐国分尼寺と推定することは困難だが、もっと古い時代の重要な場所であっただろうと思う。

ユニバから見る鬼道の無双状態0.19

新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願いします。

国家、安寧、平安、を念頭に今年も活動して参ります。

 

USJに行っていた。スパイダーマンやターミネーターなどのそれぞれの世界観が安全に平和に鑑賞出来る間はそれらは非常に心地よい調和をもたらす。ただ、それらが、ひとつの世界に統合され、称賛を強要されるようになれば、それは独裁となる。アメリカと北朝鮮、あるいはアメリカとイラン。これらも世界観の衝突である。我が国も過去、アメリカと衝突したが、軍事的に敗北した。我が国の世界観の終わりである。その後、我が国の世界観は、サブカルチャーの世界へと潜水した。

 

中国が魏呉蜀の三国で激しく戦闘を行なっていた時代、倭国は鬼道の女王を共立した。南の狗奴国とは激しい戦闘を行なっていたらしい。魏と通商を結ぶことによって、倭国は狗奴国との戦争状態をより良い状態へと導きたかったことは明らかでもある。これは、太平天国や諸葛亮先生の世界を倭国全体で支持したということも出来る。

 

日本がもし、第三次世界大戦時に出来ることがあるとしたら、そういうことではないか。つまり、同じような戦い方で世界のパワーゲームに参戦するのではなく、異なる霊戦において、大戦を終結させるというベクトルである。

 

これは、あるいは神風と同じような考え方でもあり、リスクもある。ただ、それを倭国が用いたのであれば、縄文1万年を通して私たちが培ってきた平和の思想がそこに凝縮されていると解釈して良いものと考える。

 

例えば、銅鐸は武器ではなく明らかに祈りの祭器である。それが巨大化していく背景には、戦争を祈りによって集結させようとしてきた先祖の姿が見える。鉄器の横溢によって脆くも崩れたのが卑弥呼の死去、そして古墳時代の始まりだった。世界が武力の順列によって規定されるものの、我が国は古来より違った世界を夢見た。

 

鉄器と核、あるいは鉄器と原発は同じ武力である。縄文時代が未だ終わってないとするならば、卑弥呼を共立した私たち青銅器文化の祈りの戦いは終わってないとも言える。

 

窃盗団化した高野聖や強欲化した寺院勢力、あるいは身勝手化した政治勢力などとは異なる確かな知性がそこにはあった。

 

もし仮に倭国内の豪族が単なる軍事勢力であれば、狗奴国と組んで邪馬台国を滅亡させることは簡単であったろうし、単なる宗教勢力であれば魏と通商することなど不可能であると思う。知的レベル、文化レベルがそれなりであったからこそ、魏は通商を行ったわけである。ただし、卑弥呼自体が蔑称であるという事実は免れない。

 

狗奴国との軍事的均衡を保ちつつ、魏に使いを送り、共立まで成し遂げるというのは、現在の政治よりも高いレベルの政治思想を持っていたことは明らかであり、私たちは、鬼道に対してもう少し眼を開いていかなくてはならないだろうと思う。

生業とは何か 地方発百式0.18

戦後の生業というのは、ひとつのことをコツコツと一生懸命成し遂げるという、言わば求道心という日本的価値がその核にあった。

しかし、その勤勉的な求道心が、バブル崩壊以降、ウォール街資本主義を取り入れた粗悪な企業経営者によって悪用され始めた。そこで私たちの世代から生まれたのが、百の生業で生活を成り立たせる百姓的生業道である。

これは、前者の粗悪な経営者からブラック企業に続く団塊の世代の粗悪さを露わにするアンチテーゼとなったということにおいて成果はあったということができる。

 

私たちの世代はこれをもう一歩先に進めなければならない。

 

日本国が既に生産性の側面から考察しても既に先進国ではなくなっているというのは、先ほどの都市発、自分のことしか考えない粗悪経営によって、そして悪いことに悪いと言えなくなった挙げ句に内ゲバしてしまっている日本人の性向に原因がある。

 

そこを対象化し、一歩離れて、地方発百姓式生産性の向上は、真の日本的潮流の復権と言って良い。

その先にあるものは、全く異なる仕事をいくつも掛け持ち、完全に遂行する日本人の新しい姿である。

これは単なるアルバイトの掛け持ちとは意味が異なる。病的なまでにパンクチュアルな公共交通機関を作り上げてしまった日本人の正確無比な特質が正の方向へと転じる為の契機となる。

 

これが今、地方で始まっているカオスの百式的生業である。

ひとつのことを、とか、一生懸命などの価値観をまず棄てることが、この百式に入る為の大きな前提条件になる。この、棄てる、というのは当然、禅の放下惹ということになろうと思う。

 

それぐらい私たちは、富国強兵、殖産興業という明治時代の人間が生み出した価値観に今も洗脳され続けているということである。

 

近代を仕入れたつもりが、法律を守らない政治家や経営者、この始末。全く、近代でもない封建社会よりも幾分悪くなった隠れカースト制度になってしまったのが、今の日本社会の正確な現状である。

 

このような差別や搾取が横行する社会の中で健康で文化的で最低限度の生活をする為には、地方移住しか打つ手はない。何故ならば、都市で最低限度の生活を手に入れたとしても、それは、単純に誰かから搾取した上に成り立つ擬似的幸福、つまり悪質なグローバリズムと粗悪な身勝手経営者に加担しているという構造に変わりはないからである。

 

そこに自分は日本を見出すことは出来ない。慎ましく誠実に生きてきた自分たちの歴史と先祖をリスペクトするならば、強欲と傲慢と強権にまみれた大都市はもはや日本の代名詞ではない。小さいながらもキラリと光るもの、それが日本的生き方の根源である。

 

私たちが織りなす昴の下での和平は、私たちひとりひとりの自立と平安にかかっている。先行者利益とマウンティングを捨て地方発百式へ

 

武器よさらば

布師の布は天の羽衣か 0.17

今回は土佐の安芸郡の話

 

式内社、多家神社。この多家が土左の古名、タケヨリワケのタケ、あるいは武内宿禰、ヤマトタケルのタケ、神武東征のタケリノミヤであった場合はどうだろうか。

近くの神峯神社には神武東征伝説があるし、土左郡の式内社、葛木男、葛木ヒメ神社と同じように近くに存在した片方の古社がもう片方に合祀されているのはなぜなのだろうか?

 

両社とも布師氏の拠点であり、葛城襲津彦を祀っている。

 

布とは、やはり天羽衣を表しているのだろうか。天に帰れなくなった8人目の天女を送り出す為の祭祀。船に見立てた船岡山に舟を奉納する。なぜか、穂高神社と重なる。穂高の奥宮、上高地。神が降る地。

 

美しかった八ヶ岳が山体崩壊で富士山にとって変わられた。縄文時代の話だ。

 

ヤマタノオロチを斬ったのは天羽羽斬。考えようによっては、8人の天女の天の羽衣を斬ったというような隠喩にもなっている。青銅器文化とは、完全な縄文への揺り戻しだったのかもしれない。

土左郡二之宮朝倉神社祭神、

土左の郡(こほり)。朝倉の郷(さと)あり。郷の中に社あり。神の名(みな)は天津羽々の神なり。天の石帆別(いはほわけ)の神、今の天の石門別(いはとわけ)の神の子なり。–Wikipedia –

と、土左風土記にある。

 

これで、わかるのは、土左風土記が編纂されたのが、律令国家が始まる前、土左郡が土左国になる前の話だということがわかる。

 

布師を音読みで読むとフシ(不死、富士)にもなる。

1寺2神社神奈備山の郡制度 0.16

前回の吾川郡の続き

 

吾川郡の一之宮が郡頭神社だったのかもしれない。

 

戦国時代の鴨部は大平氏の勢力下にあった時期もある。本山氏と長宗我部の朝倉合戦も有名だ。朝倉神社が土左郡内の神社であったことはほぼ間違いがないだろう。

 

鏡川には鉄器を嫌う龍神が住んでいたとされ、邪馬台国と同時期に栄え亡んだ土左国内の田村遺跡。

吾川郡の大寺廃寺近くの西分増井遺跡で鉄が大量に生産され始めた後、田村遺跡と仁淀川河口の西分増井遺跡の勢力版図、力の均衡が崩れ、両者の位置は一気に逆転した。

つまり、吾川郡小村神社が鉄剣を御神体にしている一方で、土左郡一之宮は青銅器と北斗七星を祀っていた。巫女が力を持っていた時代から、実際の力を信仰する鉄剣祭祀へと我々先祖の信仰形態は変わらざるを得なかったのである。

 

郡頭神社がこほりつ神社と言われるのも、評制に移行する際に読み方が変わったのではないだろうか。今でも呼び名はぐんとうさんであるらしい。

 

廃郡置国の時代、郡の境界線が、戦国時代に似ていることを考えると、飛鳥時代もかなりの戦国時代だったのかもしれない。ただ、土左の古代から見えてくるように、1郡につき1寺2神社神奈備山制のような形があるのは、決して崇仏廃仏の争いではなかったということである。

 

吾川郡 大寺廃寺 郡頭神社 小村神社 神の森 鉄剣

土左郡 秦泉寺廃寺 土左高賀茂大社 朝倉神社 赤鬼山 北斗七星

安芸郡 コゴロク廃寺 多家神社 坂本神社 星

波多郡 、、

女帝、神剣、神河 国分尼寺に至る背景 0.15

国分尼寺の造営過程における基礎的考察

 

をまず一読頂きたい。

 

高知で南北の区割りが現在まで残っているとしたら、国分尼寺は芸西村しかない。

 

ただその前、国分寺が造営される前の奈良時代の始め、吾川郡→大寺、土左郡→秦泉寺、安芸郡→コゴロク廃寺、幡多郡→不明、とすると郡寺同士の抗争というのもほぼなかったように思われる。

 

高知県安芸市に伝承がある蘇我赤兄が斉明天皇の留守を預かるほどのブレーンだった場合、土佐郡と安芸郡も境である芸西村に国分尼寺が造営された可能性はなくもない。

朝倉神社付近に宮を構えていた斉明天皇は浦戸湾を挟んで西の斎院の位置にあり、東宮は浦戸湾を挟んで東側。安芸郡は蘇我赤兄の統治下にあったのかもしれない。安芸とは明けの明星の“明け”であり、金星を呑み込んだ空海の御厨人窟も安芸郡である。

 

神剣を伝統的に御神体にしている日高村の小村神社が二之宮なのだからさぞかし一之宮の神剣はどんなものかと思うが、今は土佐神社に神剣はない。小村神社が伝世品として古墳時代のものを伝承しているのだから、土左大神が天武天皇に献上した剣がそれ以上だったことは間違いがない。幡多郡一之宮の七星剣、吾川郡二之宮の金銅荘環頭大刀拵(国宝)よりもすごい剣とは何であろうか?それはもう、ひとつしかない。

 

小村神社が何故、朝倉神社と共に土佐二之宮を主張しているのか?それは、小村神社が吾川郡二之宮で、一之宮が鳴無神社、その鳴無神社が奈良時代の廃郡知国で土佐一之宮に吸収されてしまったからでは無いだろうか?

 

そう考えると、吾川郡は代々、神剣を祀る土地柄で、仁淀川が古代、神河と言われた意味もわかる。越智から神谷にそして日高村に。

斉明天皇の陵は越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)である。

安徳天皇陵はもしかすると斉明天皇陵であるのかもしれない。

 

大国主女性説(兵庫県西部に痕跡)を取るならば、仁淀川水系は、女帝、神剣の伝統を持つ郡ということになる。ちなみに朝倉神社の祭神は天津羽羽神

羽羽が大蛇を意味し、それが仁淀川ならば天羽々斬剣で切ったヤマタノオロチとは仁淀川(古名みわがわ)のことで、スサノオが切り殺したヤマタノオロチの尻尾から取り出した草薙剣と、天武天皇が吾川郡一之宮から献上させた神剣は構造が同じである。

ちなみに古代、仁淀川と朝倉神社が位置する鏡川水系は、洪水の時だけ繋がっていた可能性がある。そこをつなぐ川は宇治川、ひとつのピークを神内(こうない)と呼ぶ。そこに7世紀代の朝倉古墳が鎮座する。この被葬者は、斉明天皇と同時代に生きた人、あるいは斉明天皇と関わった人物である可能性が高い。

土左国分尼寺はどこか(序) 0.14

土左国分尼寺論

①全国の国分尼寺

 国分寺からの距離

 伽藍配置、南北線

②国分尼寺成立の背景

③背景から読み解く国分尼寺の位置推定

④地名と構造から読み解く国分尼寺の位置推定

⑤現存する構造物から類推する国分尼寺の位置

 

上記のような形で、土左の国分尼寺論を始めたいと思う。

 

おそらく、この問題が解かれる時、日本の古代の謎が明らかにされるのではないかと思う。

謎というのは、なぜ夜、日没、月、星に対する信仰が昼、太陽、日の出の信仰に変わっていったのか?

 

まず前回、高天原山と土左高賀茂大社との間に内宮があるということを指摘した。ほぼ、そこは前提にしたい。それとタカアマハラとタカマガハラは同じ高天原という漢字でも一方は、高尼原を意味し一方は高禍原を意味するので、ダブルミーニングでこれまでの価値を落とし込める手法をとっていることにも注意したい。このことがあまり理解できない方には、メルロポンティなどをお勧めしたい。

 

この切り口から内宮ないくうと外宮げくうを紐解いていくと、お宮を現在でもクウと呼んでいるのは高知県人だけである。おらんくはよく知られた土佐弁として定着しているのは言うに及ばず、一宮をいっくと読むのは高知と新居浜だけである。

このクウが後の色即是空の空と習合していくのである。もののけ姫のシシ神さまの身体はクウの構造になっている。古代日本人がお宮に入っていくのは、そのクウの体内に入らせてもらうということである。修験道では、この部分を継承し、胎内巡りなどの修験馬場が全国に無数に存在する。

外宮は豊受姫を祀るが、やはりこの姫も食うを司ります。高知では、岡豊“お皇”の元になったとも言われる豊岡上天神社があります。最初、山頂にお宮があったとされています。ここが外宮比定地です。

 

しかし、内宮も外宮も国分川の氾濫によって、水の底に沈んでしまう位置にあります。熊野の大斎原同様、おそらく内宮も外宮もそうだったのでしょう。その周りには、船岡山、妙見山、祈念山、高天原山、介良三山など小高い信仰の山々が連なります。天は尼であり、雨であり、海女であり、甕であり、月、星、水というものを司っているということが見えてきます。このような、星と女神の信仰が内宮と外宮と北斗七星を祀る一宮の高賀茂があったのだから、おそらくは誰かにとっては都合が悪かったのではないでしょうか。

その内宮自体を司っていたのが葛木氏だった。葛城皇子の母、斉明天皇の伝説が今でも生々しく残っている高知の朝倉。これらの女神、北斗七星、水信仰というのはおそらく斉明天皇の時代まで続いたのでしょう。

四万十市の一宮神社に受け継がれてきた5世紀代とされる七星剣は斉明天皇が朝鮮に出兵する時、なんらかの祭祀用として用いられたのかもしれない。

 

西が尼の転訛といわれるように、西は斎にも置き換えられた。四天王寺が西を向いているのも同じ信仰の形である。国分尼寺がサイという響きから類推される場合もあるようである。