コロナ禍は、まるで”集中すること自体に何の意味があるのか?”を問いかけているようだ。
富を集約させてさらなる富を生み出していくという大都市の機能が失われた今、大都市に何のメリットがあるのか?アダムスミスの国富論はいい加減卒業すべきである。
この本質的な問いに気づいた人は既に”地方創生”が囁かれ始めた時に移住を決めていたと思う。
遡って考えてみてほしい。ITの世界では既に分散化は当たり前になっていたにも関わらず、都市経済圏は依然として集中化のままだったのである。
social distance を考えなくても、そもそも三密してない地方は、それ自体で感染リスクが低い。これは国民の健康と福祉を考えてもベクトルは成功している。
原発事故からの地方創生、そして政党政治の迷走、コロナ。
私たちに課されているのは批判ではなく創造
既に集中システムが形而上で否定されているにも関わらず、なぜ霞が関に目を向けるのか
そのこと自体が既に古いと言わざるを得ない
私たちは既に中央集権、オフグリッドからその先に進み始めている。
大都市が崩壊し、世界が同じテーマを共有するという環境はグローカルという言葉でしか表現できない。
怖れや差別はどの民族、地域にも顕現する。それをどのように乗り越えようとするのかに差異が現れる。
例えば、その差別をクリスチャニアがどのように乗り越えたか、どこかの自治政府がどのように乗り越えたか。。そもそも人権に意識が向いている土地ならば、そこに焦点が向くはずである。
日本のそれぞれの地域がそういう地点に目を向けて頂きたい。
ただ、フランスの第三共和政時に渡り(特にリヨンでの足取りに注目されたし)、”西洋の自由”を日本に紹介したのは中江兆民ではあった。その後、フランスの植民地主義に嫌気がさし、土佐独自の自由主義に回帰したのは皆の知るところではあるが。
伝染病が何度も流行った我が国で、それを極力抑える文化を作ってくれた先祖に感謝したい