ユニバから見る鬼道の無双状態0.19

新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願いします。

国家、安寧、平安、を念頭に今年も活動して参ります。

 

USJに行っていた。スパイダーマンやターミネーターなどのそれぞれの世界観が安全に平和に鑑賞出来る間はそれらは非常に心地よい調和をもたらす。ただ、それらが、ひとつの世界に統合され、称賛を強要されるようになれば、それは独裁となる。アメリカと北朝鮮、あるいはアメリカとイラン。これらも世界観の衝突である。我が国も過去、アメリカと衝突したが、軍事的に敗北した。我が国の世界観の終わりである。その後、我が国の世界観は、サブカルチャーの世界へと潜水した。

 

中国が魏呉蜀の三国で激しく戦闘を行なっていた時代、倭国は鬼道の女王を共立した。南の狗奴国とは激しい戦闘を行なっていたらしい。魏と通商を結ぶことによって、倭国は狗奴国との戦争状態をより良い状態へと導きたかったことは明らかでもある。これは、太平天国や諸葛亮先生の世界を倭国全体で支持したということも出来る。

 

日本がもし、第三次世界大戦時に出来ることがあるとしたら、そういうことではないか。つまり、同じような戦い方で世界のパワーゲームに参戦するのではなく、異なる霊戦において、大戦を終結させるというベクトルである。

 

これは、あるいは神風と同じような考え方でもあり、リスクもある。ただ、それを倭国が用いたのであれば、縄文1万年を通して私たちが培ってきた平和の思想がそこに凝縮されていると解釈して良いものと考える。

 

例えば、銅鐸は武器ではなく明らかに祈りの祭器である。それが巨大化していく背景には、戦争を祈りによって集結させようとしてきた先祖の姿が見える。鉄器の横溢によって脆くも崩れたのが卑弥呼の死去、そして古墳時代の始まりだった。世界が武力の順列によって規定されるものの、我が国は古来より違った世界を夢見た。

 

鉄器と核、あるいは鉄器と原発は同じ武力である。縄文時代が未だ終わってないとするならば、卑弥呼を共立した私たち青銅器文化の祈りの戦いは終わってないとも言える。

 

窃盗団化した高野聖や強欲化した寺院勢力、あるいは身勝手化した政治勢力などとは異なる確かな知性がそこにはあった。

 

もし仮に倭国内の豪族が単なる軍事勢力であれば、狗奴国と組んで邪馬台国を滅亡させることは簡単であったろうし、単なる宗教勢力であれば魏と通商することなど不可能であると思う。知的レベル、文化レベルがそれなりであったからこそ、魏は通商を行ったわけである。ただし、卑弥呼自体が蔑称であるという事実は免れない。

 

狗奴国との軍事的均衡を保ちつつ、魏に使いを送り、共立まで成し遂げるというのは、現在の政治よりも高いレベルの政治思想を持っていたことは明らかであり、私たちは、鬼道に対してもう少し眼を開いていかなくてはならないだろうと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です