生業とは何か 地方発百式0.18

戦後の生業というのは、ひとつのことをコツコツと一生懸命成し遂げるという、言わば求道心という日本的価値がその核にあった。

しかし、その勤勉的な求道心が、バブル崩壊以降、ウォール街資本主義を取り入れた粗悪な企業経営者によって悪用され始めた。そこで私たちの世代から生まれたのが、百の生業で生活を成り立たせる百姓的生業道である。

これは、前者の粗悪な経営者からブラック企業に続く団塊の世代の粗悪さを露わにするアンチテーゼとなったということにおいて成果はあったということができる。

 

私たちの世代はこれをもう一歩先に進めなければならない。

 

日本国が既に生産性の側面から考察しても既に先進国ではなくなっているというのは、先ほどの都市発、自分のことしか考えない粗悪経営によって、そして悪いことに悪いと言えなくなった挙げ句に内ゲバしてしまっている日本人の性向に原因がある。

 

そこを対象化し、一歩離れて、地方発百姓式生産性の向上は、真の日本的潮流の復権と言って良い。

その先にあるものは、全く異なる仕事をいくつも掛け持ち、完全に遂行する日本人の新しい姿である。

これは単なるアルバイトの掛け持ちとは意味が異なる。病的なまでにパンクチュアルな公共交通機関を作り上げてしまった日本人の正確無比な特質が正の方向へと転じる為の契機となる。

 

これが今、地方で始まっているカオスの百式的生業である。

ひとつのことを、とか、一生懸命などの価値観をまず棄てることが、この百式に入る為の大きな前提条件になる。この、棄てる、というのは当然、禅の放下惹ということになろうと思う。

 

それぐらい私たちは、富国強兵、殖産興業という明治時代の人間が生み出した価値観に今も洗脳され続けているということである。

 

近代を仕入れたつもりが、法律を守らない政治家や経営者、この始末。全く、近代でもない封建社会よりも幾分悪くなった隠れカースト制度になってしまったのが、今の日本社会の正確な現状である。

 

このような差別や搾取が横行する社会の中で健康で文化的で最低限度の生活をする為には、地方移住しか打つ手はない。何故ならば、都市で最低限度の生活を手に入れたとしても、それは、単純に誰かから搾取した上に成り立つ擬似的幸福、つまり悪質なグローバリズムと粗悪な身勝手経営者に加担しているという構造に変わりはないからである。

 

そこに自分は日本を見出すことは出来ない。慎ましく誠実に生きてきた自分たちの歴史と先祖をリスペクトするならば、強欲と傲慢と強権にまみれた大都市はもはや日本の代名詞ではない。小さいながらもキラリと光るもの、それが日本的生き方の根源である。

 

私たちが織りなす昴の下での和平は、私たちひとりひとりの自立と平安にかかっている。先行者利益とマウンティングを捨て地方発百式へ

 

武器よさらば

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