女帝、神剣、神河 国分尼寺に至る背景 0.15

国分尼寺の造営過程における基礎的考察

 

をまず一読頂きたい。

 

高知で南北の区割りが現在まで残っているとしたら、国分尼寺は芸西村しかない。

 

ただその前、国分寺が造営される前の奈良時代の始め、吾川郡→大寺、土左郡→秦泉寺、安芸郡→コゴロク廃寺、幡多郡→不明、とすると郡寺同士の抗争というのもほぼなかったように思われる。

 

高知県安芸市に伝承がある蘇我赤兄が斉明天皇の留守を預かるほどのブレーンだった場合、土佐郡と安芸郡も境である芸西村に国分尼寺が造営された可能性はなくもない。

朝倉神社付近に宮を構えていた斉明天皇は浦戸湾を挟んで西の斎院の位置にあり、東宮は浦戸湾を挟んで東側。安芸郡は蘇我赤兄の統治下にあったのかもしれない。安芸とは明けの明星の“明け”であり、金星を呑み込んだ空海の御厨人窟も安芸郡である。

 

神剣を伝統的に御神体にしている日高村の小村神社が二之宮なのだからさぞかし一之宮の神剣はどんなものかと思うが、今は土佐神社に神剣はない。小村神社が伝世品として古墳時代のものを伝承しているのだから、土左大神が天武天皇に献上した剣がそれ以上だったことは間違いがない。幡多郡一之宮の七星剣、吾川郡二之宮の金銅荘環頭大刀拵(国宝)よりもすごい剣とは何であろうか?それはもう、ひとつしかない。

 

小村神社が何故、朝倉神社と共に土佐二之宮を主張しているのか?それは、小村神社が吾川郡二之宮で、一之宮が鳴無神社、その鳴無神社が奈良時代の廃郡知国で土佐一之宮に吸収されてしまったからでは無いだろうか?

 

そう考えると、吾川郡は代々、神剣を祀る土地柄で、仁淀川が古代、神河と言われた意味もわかる。越智から神谷にそして日高村に。

斉明天皇の陵は越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)である。

安徳天皇陵はもしかすると斉明天皇陵であるのかもしれない。

 

大国主女性説(兵庫県西部に痕跡)を取るならば、仁淀川水系は、女帝、神剣の伝統を持つ郡ということになる。ちなみに朝倉神社の祭神は天津羽羽神

羽羽が大蛇を意味し、それが仁淀川ならば天羽々斬剣で切ったヤマタノオロチとは仁淀川(古名みわがわ)のことで、スサノオが切り殺したヤマタノオロチの尻尾から取り出した草薙剣と、天武天皇が吾川郡一之宮から献上させた神剣は構造が同じである。

ちなみに古代、仁淀川と朝倉神社が位置する鏡川水系は、洪水の時だけ繋がっていた可能性がある。そこをつなぐ川は宇治川、ひとつのピークを神内(こうない)と呼ぶ。そこに7世紀代の朝倉古墳が鎮座する。この被葬者は、斉明天皇と同時代に生きた人、あるいは斉明天皇と関わった人物である可能性が高い。

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